皆さま、こんばんは!

お寺で住み込みのお手伝いをしながら、メール相談を受けております、百合です。

 

昨日は、必要な「もの」と不必要な「もの」についてお話しいたしました。

不必要なものとお別れ、「断捨離」したお話でしたが、この世の中には、1つだけ、絶対に不必要にならないものがあります。

 

それは、

です。

 

命だけは、どんな場合においても、不必要にはならないし、そうなってはならないものです。

 

 

私には、幼いころから変わらない考えがあります。身の回りで誰かがその命を終えた時、「この方は役目を終えられたから、亡くなったのだな」と感じることです。

初めてこのように感じたのは、私がまだ小学校に上がるか上がらないか、6,7歳の頃のことだったと思います。私の家系は、というよりかは、時代的な話かもしれませんが、母も祖母も曾祖母も、早くに結婚出産をしたこともあり、周りの友人は曽祖父母がすでに亡くなっている場合がほとんどでしたが、私は祖父母も曽祖父母も当時存命で、身の回りで誰かが亡くなるという経験をしたことがありませんでした。

私が初めて「死」というものを身近に経験したのが、6、7歳の頃、亡くなったのは、両親が家族ぐるみで親しくしていた、父の後輩の彼女さんでした。

私は一人っ子なので、姉妹兄弟に憧れがあり、当時の私からしたら大分お姉さんに感じられるその方を、実の姉のように慕っておりました。

最初は何も知らなかったのですが、後に母から、彼女が不治の病にかかっていることを聞き、ひどくショックを受けたのを今でも覚えています。

長い闘病の末、若くしてお姉さんは亡くなられてしまったのですが、死去の知らせを母と一緒に受けて私がまず最初に発したのが、

「おねえちゃんは、ぜんぶやらなきゃいけないことをしたから、だからいなくなっちゃったんだね」

でした。何故そのように感じたのかはわかりませんが、ふと、そう思ったのです。

 

あれから身内の死も経験してきましたが、その度に同じことを思います。

「ああ、この方は使命を終えられたのだな」

と。

 

人にはそれぞれ使命があると思います。

たとえそれが生後数日で終わってしまった命であったとしても、数十年で終わる命であったとしても、生きる日々の長さには関係なく、それぞれが個々の「命の使命」を持っているのだと、いつも感じています。

使命の形はそれぞれですが、いわゆる仕事であったり、そういった実質的なものではなく、それ以上の目に見えない、おそらく死の直前まで、本人にもその使命が何なのかはわからないものだと思います。

 

 身の回りの誰かがその命を終えようとしている、あるいは終えてしまった時、どうか、悲しむだけの日々は送らないでください。使命を終えられたその方に対して、「ありがとう」「おつかれさまでした」という思いも忘れずに、心に抱いてください。

そして、供養もしっかりと行うようにしてくだい。

 

私がお手伝いしているお寺でも、供養を承ることができます。

もちろん、供養に関してもメールで対応致しますので、先祖供養、水子供養など、下記のメールアドレスにご希望の供養内容を記入して送ってください。お返事致します。

 

 

供養のご相談、悩みのご相談はメールより

yri.indulgeonlife.2020@gmail.com

相談料 1件3,000円 (供養に関しましては、お返事と合わせまして供養料をお知らせいたします。)

 

どのようなご相談にも、私の持っております霊感、霊視能力も用いながら、お答えいたします。