めぐれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって 心を 連れてゆけ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けを はぐくみて
まつときしかば 今かえりこむ
「物語の祖」として、おそらく日本中の人々がその物語の原型を幼少の頃に見聞きしたであろう、あるいは、「今は昔竹取の翁…」から始まる古典の「学習」として記憶する「竹取物語」が、高畑勲監督によってアニメーションという手法によって「わざわざ」映画化されるその今日性とは何か。内容として、我々が記憶する「竹取物語」はその生来の奇異というよりも、かぐや姫がその美貌故に招いた貴族からの寵愛を回避するために彼らに無理難題お押し付け、彼らは試行錯誤して誤魔化そうとするも悉く失敗し、その果てに月の使者によってかぐや姫は連れ戻されてしまうという、当に風の如く現れて去り行く少女、というような簡略化すれば以上のような顛末は、確かに今日的な要素としては「SF」的であるとも言え、SFの祖として日本文学以来のエポックメイキングな立場を確保しているとも言えよう。しかし、単にSF的だと括るのは乱暴で、なぜ彼女が「月の使者」である必要があったのかという説明を持って補う説得力がある訳ではない。つまり、貴族がしばしば自嘲気味に言うように、御簾に隠れ、その素顔を見ることが許されないままに、あるいは「垣間見」の観察の語が示す如くその女性に対する異常なまでの崇拝は、単に彼ら男性の平安貴族文化らしい「遊戯」的な要素を帯びるに相応しい。女性嫌悪までは到達しなくても女性蔑視に近い女性の地位の低さはそれらが「遊戯」的な要素を持つものであること、物語によるheroicな立場が理想化=虚構化されて示されていることにも示唆されるが、詰る所、貴族の自嘲さとは、女性そのものに翻弄されること自体が許されない。しかも相手は竹から生まれたとされる物の怪めいた存在故、月の者という立場を冠することで、人間的な立場との境界線を明確にする(化かされることで男性優位の立場を正当化する)必要があったのだ。そこに、かぐや姫の悲劇を悲劇たらしめる条件が揃うのであり、しかし、だからこそその焦点ないし主眼が、人間の利己さ加減という紋切り型の話として読まれてしまうのである。
そのような「物語」から跳躍し、差異化された作品が、高畑勲監督が描いた「かぐや姫の物語」であろう。貴族生活以後のかぐや姫の物語に主眼を置くのではなく、竹から生まれ、その幼少時代をかぐや姫はどのような過ごし、成長していったのか、その器量の美しさ故にいかに人間世界に翻弄されたのか、月の世界における禁忌を犯した「罪と罰」が引き起こした故に地球上に舞い降りたかぐや姫の包括的な愛を以て、人間世界そのものを肯定しようとする姿勢がこの「かぐや姫の物語」には示されていたように思う。
おそらく、観る者によって多くの「主題」がそこに読み取れるという意味での積極的なミスリードを可能とする作品であることも否定はしない。人間と自然の二項対立的な構図、私利私欲に走る人間の愚かさ、人を(かぐや姫を)「モノ」と等価に考えることの醜態さ、かぐや姫自体がその移ろい易い感情を以て人間らしさを帯びていくその相反する運命に翻弄される愛おしさ、家族愛など。様々な可能性を秘めていることは事実だが、僕個人が心震える場面としては、以下の二点を挙げておきたい。
・かぐや姫が月の者によって迎えられる場面
・月の者としての自覚が生み出したかぐや姫の「欲望」
竹取物語においても「かぐや姫の物語」においても、おそらくクライマックスとして場面になることは間違いないであろう、月の使者が地上にかぐや姫を迎えに来る場面では、月の者たちが陽気な音楽を流しながらかぐや姫の住処へ進んでくるのとは対照的に、入念な戦いの準備を以てかぐや姫が連れ戻されようとするのも拒もうとする翁と臣下たちの構図は、白熱めいた雰囲気は、しかし月の者たちに放たれた弓矢が届く前にみるみるうちに花に変わり、まるで歓迎するかのように月の者たちを装飾し、そして月の者を引率するお釈迦様めいた人物の仕草一つと妖精めいた生き物が地上を駆け巡ると、翁と媼以外の人物は眠りに落ちてしまう。余談だが、その眠りそのものも、闇夜から目を背ける人間的な習慣を嘲笑うかのようである。妖精めいた生き物がかぐや姫の部屋をなんなく探り当て、おびえるかぐや姫とそれを必死に守ろうとする媼が映し出されたその刹那、かぐや姫の表情は一瞬にして消え、媼の手から難なく離れ、手足が意志を剥奪されたまま部屋から月の者が居る雲の中へと吸い込まれていく。陽気な音楽とかぐや姫の無表情という対照的な構図が、しかし陽気さは決して月の者にとってはその「陽気」本来の意味を持つものではなく、感情の「ざわめき」そのものを悪とする彼らが奏でるからこそ、無慈悲なのではなく不気味に感じるという意味で、この場面は感慨深いものがあった。翁と媼だけが眠らされず、月の者たちが浮遊する雲までなんなく助けを請い、最後まで触れることができた、という意味でも、月の者とその行為が無慈悲であるとは決して言い難い。あるいは、感情(悲しみ、愛)そのものに何ら価値を見出さないという意味では、別離そのものの時間を与えただけかもしれない。
かぐや姫は、帝から逃れようとする時の無意識の助けを請う声(月に戻る条件でもある)によって自らの宿命―自分は何者で、なぜ地球にいるのか―を悟ったわけだが、悲嘆に暮れつつも、かぐや姫が自らの運命を受け入れ、月に戻る前に叶えた願望は、幼い頃から慕い続けた捨丸に会うことであった。捨て丸の中では「夢の出来事」として示されているように、おそらくそれは、月の者へ願い出る=利用して、自らの願望を叶えようとしたかぐや姫の仕業であることは疑いようがないし、彼女はその「願望」そのものが、なぜ自分が地球に来たのか、とう自らへの問いへの答えとして導き出したものであったはずだ。彼女が翁や媼を愛しつつも貴族生活を受け入れ、貴族からの寵愛を退けつつもその罪悪感に苛まれ続け、月の者である自分の運命を嘆くそのままの姿勢があまりにも受動的であった。そこから「生きる」ことを肯定的に捉えようとするその願望が、捨丸との叶わぬ恋を成就させ、それが夢物語でも時には落下しようとしてもまた舞い上がる二人の姿には、どんなことが起こっても生きようとするかぐや姫の、人間世界に対する愛着と肯定が積極的に描かれている。
自らの運命と生きることの目覚めの拮抗は、しかしながら運命の方に傾くことを余儀なくされるが、感情を失ったはずのかぐや姫が月に到着するその瞬間、ふと青々とした地球を振り返るという単なる行動が、感情が残るという希望の一筋のように感じさせる演出であると解釈することで、この物語の方向性が人間世界の包括的な肯定であると見なすことが可能なのだ。月の存在そのものを「衛星」のひとつとして片付ける実証主義的な眼差ししかないのであれば、この映画はその者にとって何ら生産性を喚起するものではない。か、月そのものを取り巻く闇夜の世界観を受け入れようとする者が、その憧憬を含めてその者の感受性を揺さぶるのであろう。かぐや姫が赤ん坊から歩けるようにまでなった時に嗚咽でむせび泣く翁の如く感受性が。





