食都の片隅、鶏族のマリアは長く子を授かれなかった。

 

 幾度も巣を温め、幾度も空振りに終わり、羽は擦り切れ、心はひび割れた。 

それでも春が来るたび、マリアは空を見上げて、

目に見えない神様に「もう一度だけチャンスを」と囁いた。

 

ある朝、巣に白い星が一つ落ちた。 卵だった。

丸く、少しあたたかく、触れるたびに希望の微かな音がする。 

マリアはそれを胸に抱き、羽で包み、歌をうたった。 

「あなたは生まれ、祝福され、この世界で羽ばたくのよ」 

巣は小さな聖域になり、日々、殻の内の鼓動は確かさを増した。

 

 夜、風が巣をなでるたび、マリアは夢を編んだ。 

初めての一声はどんなだろう、初めての羽ばたきは、上手くいくかしら。

 卵は未来の器であり、彼女の祈りのかたちだった。

 

だが、ある昼下り、影が落ちた。 白い衣の料理人と、その後ろに立つ助手たち。

 金属の匂い、磨かれた刃の冷たい光。 

 

マリアは卵の前に立ちふさがり、翼を広げた。

「料理長さま…」 声は震え、それでも言葉は次の一歩のように前へ出た。 

「私の命は差し出します。どうか、この子だけは……」 

卵の殻の、内なる鼓動が応える。生きたい。。と。

 

料理長は目を伏せ、ほんの一瞬だけ呼吸が止まる。

 風が場を通り抜け、乾いた葉の音がした。 

「規(のり)だ」と彼は短く言い、助手に顎をしゃくった。 

規は、人の都合で作られ、守られ、時に誰かの祈りを踏む。

 

押さえつけられる。 翼が床を擦り、爪が小石を引っかく音がした。 

「やめて、この子は、まだ世界を知らないの……!」 

叫びは、鍋の蓋の重い響きに呑まれた。

 

 

台所には甘辛い香りが立ちのぼる。 母の肉と卵が、同じ煮汁に沈む。 

再会ではない。親と子の融け合いという名の、むごい終焉。 

祝福の歌は、湯気の向こうでかすれ、消えた。

 

広場では、丼に箸が伸び、笑顔が弾ける。 

「やさしい味だ」と誰かが言う。 

そのやさしさは、誰の涙で薄められているのかを知らないまま。

 

夜、巣は空っぽだった。 マリアの温もりは跡だけを残し、風がそこに座った。 

星がいくら降りても、白い星は、もう一つも巣に届かなかった。

 

翌朝から、食都の風は時々、焦げた羽毛の匂いを運ぶようになった。 

それは、祝福された命の息の根を止めた日の記憶。

 人はそれを「親子丼」と呼び、メニューの端に小さく書いた。 

 

  この料理は、命の物語を含みます、、、と。