
ある朝目覚めると、やはり視界がクラクラして、菜々子は再び枕に頬を付けるように倒れてしまう。
「ナナ、大丈夫?まだ気分が悪いの?」
隣から聞こえてきた声に一瞬驚いたが、ああ、そうだった、と納得する。
「クラクラするの…」
菜々子は、甘えたように答える。
「じゃあ、もう少し寝てなさい」
雪弥は菜々子の頭を優しく撫でる。
「うん、そうする…」
体調の悪い時に、側に誰かが付いていてくれると、こんなに安心するんだなぁ…と思いつつ、菜々子は再び目を閉じる。
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朝はいつも忙しい神代夫妻が、何故のんびりと寝ているかと言うと、話は数日前に遡る。
菜々子の主治医の皆川医師に、やはり献血と妊娠のタイミングが悪かったらしく、このままでは楽観視出来ないので、しばらく輸血管理が必要だと言われたのだ。
そのため、定期的に輸血を受け、なるべく鉄分の多い食事を摂るように、食欲のない時は何でもいいから食べるように指示された。
帰りの車の中で、雪弥に宣言された。
「決めたわ!!アタシ、育児休業を取る!!」
「えええええ!!」
家にはまろもいるし、実家にはフクさんもいるので、せめて時短勤務かと思っていたら、終日休業だという。
「赤ちゃんの危機に、ハムなんてどうでもいいわ」
ハムとは、公安の隠語である。
仕事熱心な雪弥が、そこまでするとは思わなかった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫よ。アタシがいなきゃ動けない、なんて情けない組織には育ててないから。
それに、警察クビでも仕事なんて贅沢言わなければ、ビルの窓拭きから道路工事まで情報誌見ればいくらでもあるのよ。でも、同じ子どもの命は一度失われたら、帰って来ないのよ」
それは、確かにそうだ。
それに、この人は変な自尊心がないのと同時に、自分よりも自分の大切なもののために自由にふるまう、という不思議な自由人だ。
自分の優先順位を翻さない。
そして、菜々子も自分ひとりの問題だったら
雪弥に
「仕事に行って」
と、いっただろう。
だが、今は、自分一人ではない。
お腹の子を守るためだったら、迷惑だろうが、何だろうが、誰にでも縋るつもりだった。
それに菜々子自身、身体の事以外にも、過去の不安材料が沢山あった。
雪弥も恐らく、その辺りを考慮しているのだろう。
まぁ確かに雪弥は実家を飛び出してから、ビルの窓拭きでも道路工事でも何でもこなした実績はある。
細身の身体と中性的なきれいな容貌に似合わず
「大爺に血ヘド吐くまで鍛えられた」
だけの根性はある。
今回は、菜々子も素直に甘える事にした。
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そのうち、ツーカタカタという足音が近付いてくる。まろだ。
「ユキヤサマ、ナナコサマ、シツレイ、イタシマス」
「入っていいわよ」
雪弥の声で、まろは器用に扉を開け、盆に何かを乗せて持ってくる。
「サユ(白湯)デ、ゴザイマス。ウメボシガ、ハイッテ、イルノデ、サッパリ、ナサイマスヨ」
「ありがとう、まろチャン」
ツクモノ神の里の清浄な川の水と、フクさん特製の梅干し入りの白湯は、胃がスッキリするらしく、菜々子も美味しい、と言って飲む。
梅干しは神代家から、雪弥が大量に運んできた。
まろは、お品書きのようなものも持ってきて、菜々子に手渡す。
「ナナコサマ、コノナカデ、タベラレソウナ、モノガ、ミツカッタラ、オモウシツケ、クダサイマセ。デキタテヲ、ゴヨウイ、イタシマス」
まろの料理も、大分レパートリーが増えた。
「アタシ、ハムとチーズのホットサンドと、プレーンオムレツとサラダ。それに、コーヒー」
「ユキヤサマニハ、キイテ、オリマセヌ」
「ええ!?どうせアタシだって食べるんだから、いいじゃなーい」
最近では、雪弥までまろに甘えている。
思えばこの人も6歳で山中に捨てられ、孤児院から名家の御曹司になったはいいが、厳しく育てられ、菜々子に出会う前は、誰かに甘える機会などなかったのだ。
菜々子はくすくす笑いながら、
「それじゃ、まろちゃん。わたしにも同じものをお願いしていい?わたしはカフェ・オ・レで」
「ヨロシイノデスカ?」
最近の菜々子は、誰かが何かを食べていると、同じものが食べたくなる、という食癖がある。
「うん、お願い」
「カシコマリマシタ」
まろは、来た時のようにツーカタカタと、からくり人形独特の足音を立てて、キッチンに向かって行く。
その姿を見て微笑みながら、菜々子はやはり、自分なんかが、この様な幸せに包まれていいのだろうか、という気持ちに、どうしても苛まれてしまう。
雪弥に告げるのは酷だと思ったが、可能性としては言っておかなければならない事ではあるし、心配事を胸につかえたままにしておくのも赤ちゃんに悪い、と菜々子は自分に言い訳して雪弥に告げる。
「ねえ、ユキ」
「なぁに?」
雪弥の優しい目を見ると、罪悪感に苛まれるが、
「あのね」
「うん」
「もし…わたしに何かあっても、子どもは絶対守って。子どもだけは、絶対守って」
雪弥は切れ長の目を見開いたが、思ったよりも動揺しなかった。
「それは聞けないわ。だって、アタシが何があっても、二人とも守るもの」
「雪弥…お願い、子どもを優先して」
「その代わり、万が一にはナナとの最初の約束は聞けなくなるかも知れないわよ」
「最初の約束…」
菜々子が雪弥に、自分よりも1分1秒でも長生きするならお付き合いする、と言ったやつだ。
「何があっても、アタシが二人とも守るわ。でも、自分自身も生き残る…という約束は出来ないわ」
「…意地悪ね」
「ナナコが先に言ったのよ。…アタシの中には3人で生きる、一択しかないもの。4人、5人に増えてもいい?…というお願いなら、いくらでも大歓迎よ」
雪弥がわざと脳天気に言った言葉に、菜々子も笑ってしまう。
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雪弥は、まろと二人になった時に話す。
「今まで、道で小さな子を連れて赤ちゃんを抱いたお母さんとか、普段見慣れた風景だし、皆強くて明るいなあと思っていたけど、実は身体にも心にも、色々な悩みを抱えていたのね」
まろは、何百年も生きているから、その辺りは雪弥などよりずっと詳しい。
「トウゼンデ、ゴザイマストモ。ムカシハ、イマヨリ、オサンデ、ナクナル、ニョショウ(女性)モ、アカゴモ、オオカッタノデスヨ。ダンシ(男子)ハ、ムカシカラ、モット、ニョショウヲ、イタワルベキ、ダツタノデス!!」
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雪弥が、今まで以上に菜々子につきまとったり、まろに教わりながら、いっそう家事に励むようになったのは、それからだった。
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つづく
*お読み下さってありがとうございました!!