マキシマムザホルモン『予襲復讐』感想&レビュー(2013年)【過去記事再録】 | とかげ日記

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マキシマムザホルモンから届けられた6年ぶりのアルバム。このアルバムは間違いなく傑作であり、今の音楽シーンに突きつけられた問題作です。

こんな音楽、今までなかった! 即効性がありつつ、掘れば掘るほどディープで新しい。

3コードのシンプルなパンクのエッセンスと、メタル顔負けのヘヴィロック、うしろゆびさされ組のような80年代アイドルポップを一曲にこれでもかというくらい詰め込むハイカロリーな曲構成。

日本語ロックの新しい形としても評価できる。日本語をリズムに合わせて破裂音のように発音しながら、日本語に聴こえない新鮮な語感で歌う。はっぴいえんど、桑田佳祐、佐野元春、ブルーハーツ、中村一義らの日本語ロックを進化させた先人たちの系譜に連なるものだ。

WEEZERのフロントマンであるリバースもホルモンを高く評価している。以下にインタビューを引用しよう。

―リバースはどういう部分で日本の音楽に惹かれたんですか?

リバース:日本の音楽はアメリカの音楽より、もっとすごくコンプレックス(複雑)です。インプレッシブ(印象的)なメロディーと、コードチェンジ、キーチェンジ、たくさんアイデアがある。アメリカの音楽は少しシンプル、繰り返す、ちょっとつまらない。日本の音楽が、私に自由をくれます。

―具体的にはどんな日本の音楽を聴いてるんですか?

リバース:最近は、マキシマム ザ ホルモン。

―確かに、すごくコンプレックスですね。

リバース:ヘビーギター、メロディーフックス、すごく面白い。アメリカで売りたいです。

音楽的な新しさに加え、内面の表現の点でもホルモンは新しい。

ホルモンは、エゴをむき出しにすることを厭わない。

このアルバムは、作詞作曲を手掛けるマキシマムザ亮君という一人の人間の内面がえぐり出されるように深く描出されたアルバムである。複雑な音楽の展開は、亮君の複雑な内面を反映しているかのようだ。

歌詞と音楽に込められた意味をリスナーに届ける点でも、亮君はエゴをむき出しにする。

本アルバムには、全156ページの「予襲復讐」解説本がついている。マキシマムザ亮君による対談式全15曲楽曲解説が収録されている。また、アルバムの内容を補完するマンガ5作品も収録されている。

今まで多くのアーティストに、自分の表現したいこと、表現していることがリスナーに届いていないというフラストレーションがあった。一般的なリスナーは、自身の音楽の表層的なところしか捉えていないという不満だ。

また、音楽にはいろいろな捉え方がある。アーティストの意図とは違う捉え方をされることも多い。しかし、一つの捉え方を強要してしまうとおかしなことになってしまうという考えも根強い。

例えば、ZAZEN BOYSの向井秀徳は『すとーりーず』のインタビューで以下のように語っている。

向井:音楽を作って、自己満足をして、それを人に聴いてもらいたいという欲求があって、さらにはお褒めの言葉をいただきたいという欲求があるわけで、それこそまさに感動の共有をしたいというか、他者とのコミュニケーション欲求ですね。かといって、「こういう風に聴いてください」とか「こんなことを思ってください」とか、そういうことではないわけです。感動の共有はしたいけど、聴く人それぞれの感動の仕方があるから、曲を聴いて思い浮かべる風景もそれぞれ違うわけです。聴く人の持ってる歴史だったり、思い出だったり、日常の世界と照らし合わせて聴こえてくるわけだから、いろんな捉え方があるのは自然だと思っています。

— そうですよね。そこを強要してしまうと、おかしな話になってしまう。

向井:もちろん、それで感動の共有ができなかったり、もっと言えば、「こんな音楽全然つまらない」「むしろ、にくたらしい」とかね、そんなことを思う人もいるわけ。それは私としては非常に残念です。でもそれもしょうがないし、当然ですよね。「"ポテトサラダ"聴くとホント落ち込むわ」とか「ラジオで流れてきたら速攻消すわ」とかね(笑)、そういう人だっているかもしれない。

しかし、亮君はやっちまった。自身の音楽でどのようなことを表現したいのか、前代未聞の豪華解説本でみっちし解説してしまったのだ。

解説本の一番最初に登場する漫画で、「ゴーマンかましてよかですか?」とあるのは、もちろんゴーマニズム宣言のパロディであり、自らの思想をあなたにぶつけますよという宣言だ。

マキシマムザホルモンは、漫画で、文章で、PVやライブ形式などあらゆる手段を用いて、精神の根源を見せつける。自分のエゴ,自己顕示欲,魂を強烈に提示する。

しかし、音楽に対する一定で単一の解釈を押しつけられているとは、不思議と感じないのだ。それどころか、もっと亮君の内面を見せてくれという気持ちになってしまう。そこにマキシマムザホルモンの音楽の特異性がある。おそらく、音楽に含まれる内面が一面的なものではなく、複雑極まりないものであるため、亮君の提示する解釈自体が多面体であるためだと思う。

では、このアルバムで彼らが見せつける思想とは何か。それは、中2のメンタリティと復讐である。

まず、中2のメンタリティ。おバカな妄想がたくましく爆発する中学2年生の精神性。どこまでもくだらない中学パワー。

性に目覚め、ものごころがつくのが、だいたい中学2年生の頃。いわば、僕たち人間の根源だ。性と生と煩悶が詰め込まれたホルモンの音楽には、無限の中学パワーが注ぎ込まれている。

「え・い・り・あ・ん」では、ラストで「STOP! STOP WINNY UPLOAD!」と繰り返し大仰で感動的に歌われる。WINNYの時代は終わっているのに! そして、「my girl」で女の子への愛を歌った後に、「メス豚のケツにビンタ(キックも)」が歌われるなど、全くもって人を喰っている。このようなイタズラ心も中2パワーの発露だ。

次に、復讐。

付録の漫画で描かれるような、亮君の学生時代に身の回りにいたイケイケのヤンキーに対する復讐。自分達の音楽の表層しか聴こうとしないリスナーへの復讐。また、「小さな君の手」の偽PV公開騒動でも表現した、ファンキーモンキーベイビーズのような上っ面の愛の曲を歌うアーティストに対する復讐。(誤解されないように言うと、僕はファンモンは嫌いではないです。)

そして、タワレコの「NO MUSIC, NO LIFE?」ポスターでも謳った、「NO MUSIC, NO LIFE?」とかいう素敵なことをほざいている連中への復讐。

世の中には、簡単に「NO MUSIC, NO LIFE」と言ってはいけないと主張する人たちがいる。彼らは、本当に「NO LIFE」と言える覚悟はあるの?と僕たちに問いかける。しかし、正しいや間違いはどうでもよいのだ。僕は、間違っていても、自分の心に火をつける文章と音楽をむさぼりたい。だから、マキシマムザホルモンの姿勢には強く惹かれるのだ。

彼らの音楽は、復讐心であふれている。復讐のために、自分を見せつけるという表現の方法は、神聖かまってちゃんの音楽にも通じるものがあるだろう。

かまってちゃんのの子の作る音楽には鬱的・躁的、両方の側面があり、亮君の作る音楽にも両方の側面があることも共通している。
(亮君が好きな音楽にQUEERSやJellyfishを挙げているのは、鬱的でヘヴィな側面だけでなく、軽快で躁的な側面もあることの象徴である。)
それは、両者ともに、自分の内面のすべて(心の両面)をさらけ出しているためだろう。

ところで、音楽ファンで話題になっているアイドルの楽曲(ももクロ、でんぱ組など)も聴いてみた。個々の楽曲には良いと思えるものももちろんあったが、どうしてもこれじゃない感がぬぐえなかった。

僕が求めているのは、まず、音楽における思想,自意識の発露。そのためには自作自演であることが重要なのだ。どれ程音楽が優れていても、アーティストの思想や精神性が曲に含まれなくては、自分にとっては聴く価値がないと思ってしまう。

あとは、カウンターの要素。既存の音楽へのカウンターを積み重ねてロックは進化してきた。進化し続ける,変化し続ける,成長し続けることを核心とするロックの精神性に、僕は深く共鳴してきた。

ももクロやでんぱ組も既存のアイドルに対するカウンターだ。だから、AKBやハロプロよりも彼女達が好きだ。

いろいろな人によってサブカルチャーの精神性への批判も行われているが、マスのカルチャーへのカウンターであるサブカルチャーを僕は支持する。(その意味で、「I'm サブカルチャー!」とためらいもなく言ってのける神聖かまってちゃんが大好きなのだ。)

ロックしかり、サブカルチャーしかり、あまのじゃくな反抗や抵抗の要素がなければ、僕はその音楽を好きになれない。

マキシマムザホルモンのこのアルバムには思想,自意識の濃厚な発露がある。激烈なカウンター精神がある。僕が求めていたのはこういう音楽なのだと思った。

最後の曲「恋のスペルマ」には本当に感激した。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、憂鬱、ユーモア、恋や愛の全てが詰まっている。

ヘヴィだからといって敬遠せずに聴いてほしい傑作アルバムです。

(この記事は、発売当時に書いて削除してしまった記事を復元したものです。)