自分を取り戻すための戦い(神聖かまってちゃん「26才の夏休み」論) | とかげ日記

とかげ日記

【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。





神聖かまってちゃんの歌は本当の自分を取り戻すための戦いだ。

僕たちの心はこんなにも分裂してしまった。周りに求められるキャラを演じ、笑い、でも裏では別のことを考えている。着飾った外面のキャラは、ありのままの自分からどんどん離れていく。

「26才の夏休み」という曲は分裂せず、一人としてそこにあった、懐かしい子供時代の心を取り戻すための歌だ。分裂したもう一人の自分を認めてあげるために、鳴りやまないロックンロールの熱が自分のかけらを拾い集める。


感受性はどこから来るか? 一人の人間として風景や物事に体当たりでぶつかることから生まれる。心が身体から離れた分裂した状態では感受性は生まれない。

本当の自分ではない、代償的な自分を生きることによって、感受性ってやつはどんどん鈍っていく。だから、"の子"は歌う。「死んだ顔で何を見てる」と。そして続けて「僕はかけらをただ拾い集めてる」と歌い、分裂した心のかけらを取り戻すためにシャウトするのだ。

ところで、「ひげを剃ることからまず始めている」という歌詞は、これから外で人に接する前の準備だろう。また、「夏がおわりゃまた働きアリとして続く日々」という歌詞もあり、「社会で暮らす自分」が描かれていることが分かる。

"の子"には社会で暮らすということを忌避したい気持ちがあることが伺われる。あるいは、社会で生きることに疲れ果てている。それは、「33才の夏休み」で「33才さ人生にただ疲れてる」という歌詞からも分かる。

社会では摩擦しながらにしか生きられない。"の子"のように繊細な精神の持ち主には辛い環境だ。リストカットの写真をツイッター上に掲載したこともあった。


しかし、それでも"の子"は強い。傷つきながらもタフに生きる方法を知っているのだ。

タフに生きる方法――。それは、"の子"にとっては音楽の中でシャウトすることだった。彼のシャウトには悲痛にも聴こえるが、リスナーには生きる希望として響くのだ。"の子"のシャウトの中には、飾りのない本当の"の子"自身がいると思えるから。