男になりきれない…。
「男らしい男になれ」とか苦痛だ。
かといって、僕は女性ではない。
じゃあ、どうしたらいい?
神聖かまってちゃんの「自分らしく」、安っぽくローファイに刻まれる8分音符のギターがかっこいい🎸🎵😄
「男にも女にもなれやしない僕だから
みんなの目が厳しいとちょっとつらい」
「男にも女にもなれやしない僕だから
生き様も生き方もロックしたい」
「自分らしく」の歌詞は、今野よーよーの生き方の理想そのものだ。僕の性別も男でも女でもなくロックなんだよ。「みんなの目が厳しい」という社会の障害を超えていくんだよ。社会と摩擦しあいながら、自分の生き方を貫くのがロックなんだよ。
「自分らしく」という曲は、自分に素直に生きていくことを宣言している。自分らしく生きたいという可憐な欲望を宣言する。「自分に素直に生きていけ」という命令形ではないのだ。生きていけという命令形だと、男らしく女らしく生きていけと命令してくる社会の大人たちと変わらないのだ。
神聖かまってちゃんというバンドは一貫して自分に素直に生きていくということを歌っている。自分のセクシャリティがなんであろうと、自分がニートだろうと、自分がメンヘラだろうと、自分がどのような属性だろうと素直に生きていく。みんなの目が厳しくても生きていく。
神聖かまってちゃんの曲を作るの子は人一倍繊細で傷つきやすいメンタリティを抱えている。初期のライブではメンタルが荒れて失敗に終わることも多かった。それでも彼を突き動かすものは何か。それは、ロックの衝動だ。
ロックは単なる音楽性だけを指す言葉ではない。精神性を指す言葉としてもロックという言葉は機能する。だが、今、ロックを演奏するバンドは、皆でウェイウェイ盛り上がるだけの音楽または蒸留水のように何も主張しない味気ない音楽ばかりを演奏している。そこに神聖かまってちゃんは決死のカウンターを放つのだ。「死にたい」と叫びながら、実際にリストカットしながらも、ロックの精神性を体現しているバンドが神聖かまってちゃんだ。
そして、濃密な精神性は濃密な音楽によってもたらされる。「自分らしく」もローファイな音楽性でありながら、圧倒的な密度がある。曲が終わると、映画を一本観終わったかのような達成感がある。
僕は神聖かまってちゃんを推し続けたい。の子のメンタリティは奇形だが、僕の奇形のメンタリティと奇妙にフィットする。神聖かまってちゃんの音楽は全ての少数派のための音楽なのだ。あらゆる人は多数派であると同時に、世界に転がっている何らかの側面では少数派。全ての少数派に「自分らしく生きる」という勝利への力を与えてくれる音楽が神聖かまってちゃんの音楽だ。男にも女にも嫌われても、それでも自分たちらしさを貫いてくれ、神聖かまってちゃん。