宇多田ヒカル『Fantome』感想&レビュー | とかげ日記

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下記のレビューを書くにあたって、このインタビュー記事を大いに参考にしています。

●日本語にこだわったアルバム
宇多田ヒカル、2010年から続いていた「人間活動」という名の充電期間を経て、約8年半ぶり、6枚目となるオリジナルニューアルバムである本作をリリース。

インタビューでも語られているとおり、本作は亡き母である藤圭子さんに捧げられたアルバムだ。母が亡くなってから、一時期は何を目にしても母が見えてしまっていたという宇多田さんが、「母の存在を気配として感じるのであれば、それでいいんだ。私という存在は母から始まったんだから」と思い直して立ち上がり、「幻」や「気配」を意味する“Fantome”というタイトルをつけたのが本作のタイトルの由来だ。

今回のアルバムは“日本語のポップス”で勝負したいと語っていた宇多田さん。今まで英語詞を使う時は、日本語で直接思いを伝えることの照れから使っていたというが、本作ではわずかな英語とフランス語を除き、歌詞は全編日本語で書かれている。#1「道」以外のトラックは歌詞を聴き取れるようにアレンジも極力少なめにしたという。

言葉が大切にされているアルバムだと感じる。だが、#9「忘却」の歌詞において、「熱い唇 冷たい手/言葉なんか忘れさせて」と歌い、歌を離れた実生活では言葉よりも人の温もりを選ぶ宇多田さんがいる。そんな宇多田さんだからこそ、人の体温がある温もりのある言葉が書ける。頭だけ使うソングライターには絶対に書けない歌詞だと思う。

●全曲レビューとおすすめ曲
本作はダンサブルな#1「道」で幕を開ける。サントリー天然水CMソング。等間隔のバスドラの打ち込みに乗る明るいトーンの歌声が、この調子とこのテンポで前に進んでいくぞという気にさせる。母が亡くなっても宇多田さんの心の中には母がいる。「母の声が聞こえる」という歌詞は単に比喩であるというだけでなく、母が歌手であることにも関係しているのかもしれない。母の死と共に、または気配として感じる母と共に進んでいこうとする宇多田さんの意思を感じさせるオススメの曲。

#2「俺の彼女」。アダルトな雰囲気がする。宇多田さんが男女二役をこなすが、歌詞を聴かずとも声色の使い方で宇多田さんが今、男女のどちらの役をやっているのかが分かる。「カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい/カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい」と本音で歌う宇多田さんがいる。宇多田さんの言葉はいつも本気だ。心の根っこから出てきた言葉という感じがする。

#3「花束を君に」。NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」とタイアップとあって、間口が広い作品になるように留意したという。オフコース、チューリップ、エルトン・ジョンの「Tiny Dancer」を意識。シンプルに贅肉をそぎ落とした優しいアレンジだ。優しい歌詞とメロディが心地よい。宇多田さんの過去曲「Letters」で母から置き手紙をもらった宇多田さんがお返しに歌の花束を渡している。オススメ!

#4「二時間だけのバカンス」。椎名林檎が参加。「優しい日常愛してるけれど/スリルが私を求める」という歌詞や「家族の為にがんばる 君を盗んでドライブ」という歌詞からして不倫を歌っていることは明白だ。そして、その箇所を椎名林檎に歌わせているのは二人の関係性となんらかの繋がりがあるのだろうか。柔らかい宇多田さんの歌声と一点を突くような椎名さんの硬質な歌声が一曲の中で素晴らしい塩梅で溶け込むオススメ曲。椎名林檎って、改めて聴くとこんなに魅力的な歌声なのだと気付かされた。同時にロックな曲に映える歌声だと思った。今度、新作のアルバムを借りてきて聴いてみよう。

#5「人魚」。タイトルのように、不思議な空気感のある曲。ちょっとしたファンタジーを感じる。レガートに紡がれる歌声が気持ち良い。

#6「ともだち」。水曜日のカンパネラやLucky Tapesなどのプロデュースで知られる小袋成彬が参加。本人がインタビューでLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)のつもりで歌ったと語っていた。中村中の「友達の唄」と近いテーマ性を感じる。中村中の曲が哀しみを抱えていたのと同じように本曲も哀しみを抱えているが、中村さんの曲と違って妙な明るさもあり、それが中村さんのイノセントな曲と違ったアダルトな雰囲気も醸し出している。

#7「真夏の通り雨」。日本テレビ系『NEWS ZERO』テーマ曲。宇多田さんの母への思いがあふれ出して止まらない。「花束を君に」や本曲の簡潔性を重視した音楽性は普遍性を帯びる。ある人はアデルの音楽性に近いものがあるのではないかと語っていた。アデルは英語詞だが、宇多田さんは日本語詞で、音楽性が近いとしても、英語と日本語でこんなにも響きが違うのかと思う。歌詞の言語が違えば、音楽性まで違ってくるのではないだろうか。オススメです。

#8「荒野の狼」。ヘルマン・ヘッセの同名の小説がモチーフとなっている。狼の息にも似た宇多田さんの吐息の連続で始まる。ヘルマン・ヘッセの小説のアウトサイダー的な要素が本曲にもある。「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら」や「まずは仲間になんでも相談する男 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子」を尻目に見ながら、荒野の狼は二匹で月夜の舞台に上がるのだ。

#9「忘却」。ラッパーのKOHHが参加。KOHHの辛い記憶と宇多田さんの母を亡くした痛手がリンクする。シリアスな雰囲気のトラックの上に二人の魂のラップと歌声が乗って、リスナーの涙腺も心臓も熱くさせる。オススメ!

#10「人生最高の日」。深い森の中にいたような「忘却」の世界観から一気に景色が開ける。『HEART STATION』期のポップでキャッチーな宇多田ヒカルさんが戻ってきてくれたようで嬉しい。

#11「桜流し」。2012年に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』テーマソングとしてリリースされた配信シングル。母が亡くなる前に書いた曲なのに、母が亡くなることを予期していたような曲。エヴァも、母と同じ身体を持ったレイという少女が人工的に作られるという、いない母を巡る葛藤の物語という側面があった。このアルバムの中で最も切実な響きがある曲だと思う。だからこそ、アルバムの最後に置いたのだろう。オススメです。

●年相応の成熟
本作を聴いて、年に見合った成熟を感じる。神聖かまってちゃんのように、キッズと対話するためにも自身が子供のままでいるアーティストも僕は好きだ(神聖かまってちゃんは成熟した大人の要素もあって、子供と大人の両義的な側面に魅力を感じると書いた方が正確かもしれない)。だが、本作のように、年と共に歌詞も音楽性も成熟していく作品にも魅力を感じるのだ。

早熟の天才と呼ばれた宇多田さんは、成熟しても天才であり続ける。心の根元からの歌声、本物の日本語のソウルを聴かせる。母を亡くしてセルフセラピーの役割もあった本作は、母という普遍的な存在をもって第一線のポピュラー作品にもなりうる。

僕の母は生きている。父も妹も生きている。だから、このアルバムの主人公に完全に自分を重ね合わせることはできないが、宇多田さんの母への思いには心がシンクロするように共感する。瞬間、心、重ねるようにこのアルバムが好きになった。


花束を君に