内田樹『呪いの時代』(新潮社,2011) 感想&レビュー | とかげ日記

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内田樹さんは、僕の大好きな思想家だ。
内田さんの専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。
そういったバックボーンを背景に社会を論じているが、
その切り口は、鮮やかで至極まっとうなものだ。
どの辺りがまっとうかと言うと、一つは生産的な議論をしようとする、その姿勢だ。

この本で語られている内容によると、、
1980年代半ば、ニューアカデミズムの批評が登場して以降、
「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」と同義になり、
「辛口」や「毒舌」という言葉がコラムのタイトルに頻出するようになった。
内田さんはその状況の中で、相手を攻撃する毒のある言葉は使わず、
提言することや情理を尽くすことをもって物事を語ろうとする。
相手の主張への攻撃や揚げ足取りだけを意図し、何も生み出さない言論がある一方で、
内田さんのように物事を語ろうとする姿勢には、とても共感する。

攻撃的な物言いはインターネットの世界の中では特に顕著だ。
内田さんはネット上の言論について、以下のように指摘する。

「ネット世論の語り口の問題点は、「私」の自尊感情の充足が最優先的にめざされているせいで、「公」的な次元で対話することへの努力が配慮されないことです。
 ネット上のやりとりにおいては「批判に応えて、自説を撤回した人」や「自説と他者の理説をすり合わせて、落としどころで合意形成した対話」をほとんど見ることがありません。しかし、日々の僕たちの現実の営みの中では、対立する立場の人間を一刀両断にして、斬り捨てて「おしまい」というような場面はほとんどありません。僕たちは自分と意見の違う人間と共生しており、彼らの「私とはぜんぜん違う意見」にも配慮し、それをある程度織り込んだ「落としどころ」で合意形成をするしかないからです。」(p.15.)

確かに、内田さんの言うように、ネット上では相手の気持ちを配慮せずにばっさりと斬り捨てる言説が多い。(しかしながら、2ちゃんねるなどの匿名掲示板でも生産的な議論は多くなされていると思うし、SNSのmixiやfacebookなどの匿名性が比較的薄いところでは、自分とは違う意見もある程度配慮されていると思う。)

こうした攻撃的な言説を内田さんは「呪い」であると読み解く。
ネット上での辛辣な悪口によって自殺者が出ているのは、呪殺だとも論じる。

ばっさり切り捨てられるだけなら気持ちよく終われるかもしれないが、
「氏ね(「死ね」のネットスラング)」や「カス」と言われて傷つき、
苦い気持ちが粘着質にまとわりつくのは、
「呪い」によるものなのかもしれない。

メディアやネットを支配しているのは、こうした呪いの言葉だ。
内田さんは書いていないけれども、
もちろん、生産的な言論もあると思うが。

呪いの言葉を吐く人は、自ら創造することを厭う。
自分の創造したものが他の誰かによって価値を見定められることを嫌うからだ。
低い価値に見積もられて自分が傷つくことを恐れているのだ。

「身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何かを破壊する生き方を選択します。必ずそうなります。
「……を叩き潰せ」「……を打倒せよ」「……を一掃せよ」というのは、そういう人たちが選好する言葉づかいです。」(p.18.)

サカナクションの山口一郎さんは「エンドレス」という曲の中で次のように歌う。

「誰かを笑う人の後ろにもそれを笑う人
 それをまた笑う人
 と悲しむ人」

この歌詞の中の「笑う」は「嗤う」と文字をあててもよかったのではないか。
「叩き潰せ」や「氏ね」といった言葉は、
エンドレスに数珠つなぎして人々の心を束縛していく。

こうした「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。内田さんは以下のように述べる。

「それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。「このようなもの」であり、「このようなものでしかない」自分を受け容れ、承認し、「このようなもの」にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を「可憐」と思い、一掬(いっきく)の涙をそそぐこと。それが「祝福する」ということの本義だと思います。」(p.36.)

本書で扱うテーマはバラバラに見えるが、
呪いの時代への向き合い方を論じるという一点において共通している。
多様であり、凡庸である、ありのままの自分を受け容れ、
他者に対して敬意のある祝福の言葉を贈ることが、
呪いを解く鍵であることが語られている。

そのように書くと、RADWIMPSやSEKAI NO OWARIが目指す、
汚れや毒のない無菌室な世界が理想だと言っていると受け取られるかもしれないが、
自分の中にある邪悪な部分を受け容れることも大切であることが本書では語られている。
内田さんの現状認識は彼らのように純粋で穢れのないものではなく、
ふてぶてしいくらいにタフで汚れている。
僕らとは年期が違うおじさんなのである。

本書で内田さんが語っていることは、
どのようにすれば個々人の能力やパフォーマンスが最大限に発揮されるかということなのだ。
自分がビジネスライクな人間であるからこそ、自分と社会の利益を増すために、
呪いではなく祝福をすることを訴えているのだ。

「私たちはもう「壊す」時代から抜け出して、「作る」時代に踏み入るべきだろうと思う。」(p.284)

相手を呪う攻撃的な言葉を使わずに、批判ではなく提言へ、排除ではなく受容へ。
皆が自分の力を最大限に発揮できるように。僕も願う。

呪いの時代/内田 樹

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