テン年代に躍進したバンドである神聖かまってちゃんと相対性理論。
その音楽の方法論は対照的だ。
かまってちゃんは、素顔を出す。ネットの配信も、作る音楽も、ありのままの自分を見せるノンフィクションだ。
の子は普段はおとなしく真面目らしい。THE CROWSというバンドでかまってちゃんと対バンしたことのある友人が言っていた。それなのに、ライブや配信の時にキチガイを演じて暴れてみせたりするのはよく分からないとも言っていた。でも、キチガイを振る舞うのも、暴れたりするのも、の子が持つ一面なのだ。ああいう人前に立つ場面になると、の子の心の奥で渦巻いているマグマが噴出する。計算してやっている面もあるけれど、それはコントロールしながら自分を出していく、の子の賢さだ。
かまってちゃんの音楽は自分の内面をさらけ出す。『あるてぃめっとレイザー!』という曲は、小便を人前ですることに見立てて、自分の全ての精神を解放しようとする開放的な歌だ。
一方、『ロックンロールは鳴り止まないっ』に象徴されるように、自意識と感情の生々しい吐露を典雅に包み込むピアノの音。歌詞や曲想など青臭い音楽のはずなのに、その青臭さを恥ずかしく感じずに済むのはピアノの音も含めた洗練とセンスがあるからだ。
解散したゆらゆら帝国のメンバーである坂本慎太郎は、『仮面をはずさないで』という曲の中で次のように歌っている。
できればそこは見たくない
全部なんて知りたくもない
仮面の上にもう一枚仮面を
サカナクションに『仮面の街』という、仮面をつける自分を嘆いていると解釈できる曲があるが、坂本慎太郎のこの曲は、仮面をつける自分を現実に即したものとして肯定する。彼の2010年のソロアルバム『幻とのつきあい方』で聴かせる彼の曲は、薄れた自意識が歌唱の語尾で揺らぐ、カフェミュージックをフュージョンにしたような感触のアルバムである。自意識とエゴを前面に出していくかまってちゃんは、現在の彼と真逆の方向性とも思える。の子は仮面なんか取っ払って、自分の本質を露出したいのだ。
一方、相対性理論は、どこまでいってもフィクションだ。歌詞もそうだし、インタビューでも不思議の国の女の子を演じている。ボーカルのやくしまるえつこは、知性があるこりん星人のようだ。決して素顔を見せない。
しかし、相対性理論の音楽は、坂本慎太郎のいう「仮面」をつけた音楽とは違っている。本音の音楽なのだ。
フィクションなんだけど、そのフィクションが本当に存在するかのような歌いぶりだ。The Smithsに通じる清らかなギターに緩いアニメ声のようなボーカルが乗ると、ジブリよりも懐かしい世界に僕たちを連れだしてくれる。進んでいくベースの音色がその世界にリアリティを与える。ドラムのリズムが夢見心地だ。ファンタジーは現実にあり、ファンタジーの中で描かれる心象風景こそが彼女達の本音なのだ。資本主義はシフォン主義、やくしまるえつこは、パラレルワールドの住人、ミス・パラレルワールドだ。町を破壊する、やってきた怪獣とサイキックで戦ったりする。
僕は、かまってちゃんと相対性理論の両方に、今の時代のリアルを感じる。視界に世界が転がってくるし、自分もその世界に転がっていくようだ。音楽を聴いている間だけは、仮面を外していたい。
相対性理論『ミス・パラレルワールド』