この夏、猛暑のさなかに母が逝った。
病院のベッドの脇で、やせ細って点滴で赤黒い痣だらけになった母の手を握り、だんだん消えていくデジタルの波形と母の息遣いを見つめながら、なぜか現実感はなく、涙も出ない、深夜から明け方のあっけないような2時間だった。
その後は慌ただしく葬儀と諸々の手続きに追われ、ようやく普段どおりの日々が戻ってくる頃、哀しみは後からじわじわと心の中に浸食してくることを知った。心配事と手間暇がなくなったぶん、そこがぽっかり穴になったよう。ふとした瞬間、母とのあれやこれやが不意によみがえり、いろんな思いが混ぜこぜになって胸が塞がれる。気づくと私はいつも「ごめんね」と心の中でつぶやいている。
学生時代、同級生たちが「一卵性親子」と呼んだほど、似ているとよく言われた母と私。目も鼻も口もパーツひとつひとつはちっとも似ていないのに、全部が集まると不思議と同じ雰囲気に見えるそうだ。
外見だけでなく性格や癖も、反発したり咎めたりしてしまったのは、認めたくはないけれど自分も似ていることをどこかでわかっていたから。そこに自分の年老いていく姿を重ねたのかもしれない。
文章を書くこともまた、私は母から受け継いだように思う。
洋裁、コーラス、絵、俳句と、何でも器用にこなす人だった。
地域の広報誌に「私の”これ”が好き」と題して母が寄稿した記事には、夫、テニス、車、犬について書かれていた。思えばその4つと次々に別れなければいけなくなるたび、母は弱っていったように思う。
本当なら孫やひ孫までいてもおかしくない歳、子供が大好きな母なら少しでも成長を見届けたいと願っていたはず。もっともっと長生きしなきゃと思える理由を、私は作ってあげられなかった。
父が施設に入り一人暮らしになってからのこの1年余りは、母親というよりなかなか言うことを聞いてくれない我がまま娘を相手にしているようで、何を提案してもイヤイヤと憎まれ口が返ってきて、母もよその人に会うと「娘に怒られてばかり」と愚痴をこぼしていた。
体の不調を訴えるようになってからも、とにかく病院が大嫌いで、連れて行くのにいつも手こずった。せっかちで長い待ち時間が我慢ならず、「最近の医者はパソコンばかり見て顔や体を見もしない」と行くたび怒っていた。
血液の病気がわかり定期的に輸血が必要になってからは、何度説明しても「もういいでしょう?」と言って入院を嫌がった。一人は心配だからとデイサービスをどんなに勧めても、「家にいたい」と言って断固として拒否した。
最後の2週間、緊急入院し点滴につながれ見る見る衰弱していく中でも、家に届く郵便や回覧板を気にして、「明日は退院できる?」って看護師さんに聞いていた母。「こんなところにいるくらいなら死んじゃいたい」って駄々をこねていたのが、本当にそうなるなんてその時は思いもしなかった。そんなに帰りたかったんだね。好きなものと離れて、自分の望む生活はできず、体は辛いことだらけで、もう生きているのがしんどかったんだね。せっかちなあなただから、もうこれ以上は耐えられないって、さっさと生涯を閉じてしまったのかも。
ごめんね、お母さん。やっと楽になれたね。
毎週様子を見に来てくれていた訪問看護師さんが、お線香をあげに立ち寄ってくれた時、「娘さんのこと、”あの子は忙しいのよ”って自慢気に言ってましたよ」って話してくれた。仕事を盾に恩着せがましい態度ばかりで、ちっとも優しい娘ではなかったのに。もっと何かしてあげられることがあったはずなのに。
「子供は3歳までに一生分の親孝行をするんだよ」って、昔あなたが教えてくれた言葉。幸せな最期にしてあげられなかった娘を、あなたは許してくれるだろうか。子供のいない私にはわからないかもしれないけれど、私自身がこの世を去る時まで、その答えを探し続けてみます。
ごめんね、ありがとう、お母さん。