愛してやまない母に呼ばれたように、ちょうど3ヶ月して父もこの世を去った。
家族を守り、会社を守り、仲間を守り、そして自分の好きなことに全力で向き合い、頑張って頑張って本当に頑張り続けた人生だった。
七人兄弟の真ん中で長男に生まれ、十七で父親を亡くしてからは、弟や妹たちへの責任を一心にその肩に背負い踏ん張ってきた。義理堅くて人情に厚く、人が良過ぎて誰かの借金をどれだけ肩代わりしたかわからない。仕事でも割に合わない損な役回りばかり引き受けて、それでも真正面から立ち向かう人だった。若い頃から念願だった税理士資格に75歳を超えて再チャレンジしようと学校に通い始めた時には、心底この人には敵わないと思ったものだ。
貧しい時にも人にふるまうことは惜しまず、関わった誰しもに「メシでも食ってくか」「一杯やるか」って言うのが口癖だった。パーキンソン病で体が徐々に動かなくなり、認知症が進んで施設に入ってからも、病院に付き添ってくれた看護師さんに同じ言葉をかけ、「きっとそうやっていつも女の人を誘ってたんですね」ってからかわれていたけれど、常にまっすぐでホットで自然に周囲を笑顔にさせる父は、母曰く「男にモテる男」だった。
小学生から始めた野球に一筋に情熱を注ぎ、甲子園で準優勝するも家庭の事情で実業団をあきらめ、それでも志を同じくする仲間とソフトボールクラブを創設し、齢を重ねるごとに自分がプレイできるシニアチームを新設して現役にこだわった。クラブが50周年を迎え、自分も80歳を過ぎて歩くのもおぼつかなくなってさえ、仲間に迎えに来てもらいながらユニフォームを着て毎週グランドに通い続けるほど、一途に野球バカ人生を貫いた。
母は多彩な才に恵まれながらも、私と同類でどちらかと言えばシニカルで可愛げがないと思われることもある人だったけれど、そんな母が死ぬまで大事にしまっていた若い頃の日記や手紙には、父との青い日々がびっしりと刻まれていた。「愛してるとか言うんじゃなくてとにかく惚れちゃったのよ」と、いつか母が言っていた言葉が思い出された。
その母が亡くなり、棺に入った姿を車椅子の父に見せながら、「ごめんねお父さん、生きてるうちに会わせてあげられなくて」と言った私に、「ああ、仕方ないよ」と答えてくれた父の言葉は、痛いほど優しくて淋しかった。虚ろな表情に「どこまでわかってるのかな」とみんなで話したけれど、きっとあなたは全て飲みこんで私たちを思いやり、そして本当はとても深く悲しんでいたんだね。
父が最後に肺炎で入院した時、母の仏前に「こんなに早くお父さんを連れて行かないで、どうかお父さんをお守りください」と手を合わせた。それでも心のどこかでは、あの母のことだから「いやよ!だって私が淋しいじゃない」って言うんだろうなと、うっすらあきらめている自分がいた。ソフトボールで遠征試合があるといつも、「お母さんが一人だから頼むぞ」と電話をよこした父。体の自由がきかなくなっても、母が用事で出かけるたびに「一緒に着いてってやろうか」って言ってた父だから、母に呼ばれたらきっと「そうかそうか」って行っちゃうんだろうなと。
亡くなる二日前、15分に制限された面会時間の終わり、「お父さん、もう少しでごはんも食べられるようになるからね、また来るから頑張ってね」と言った私の言葉に、「おお!」と力強く答えてくれたのは、あなたに生きてほしいと願う私たちのために、きっと精いっぱいの元気を見せようとしてくれたのだろう。我慢強くて辛いとか苦しいとか決して言わない人だった。最後まで父は父であり続けた。
これでやっとお母さんに会えるね。大好きなお酒も久しぶりに二人でゆっくり飲めるね。本当にお疲れさまでした。あなたの娘であったことを心から誇りに思います。あなたの人生に、誰にも負けない敢闘賞を贈ります。