パカル王の墓へ下る階段入口。第10室。マヤ。メキシコシティ。国立人類学博物館。

2014年11月11日(火)。

マヤ文明はBC1000年頃から16世紀まで繁栄した都市文明であったが、統一王国はなかった古典期後期(600~800年)には大都市が周囲の中小都市を統括して八つほどの広域国家が形成されたのちに、60から70ほどの小都市国家が林立していた。

 

パレンケもマヤ文明の古代都市で、マヤ低地の西端にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた。パレンケ遺跡の碑文の神殿から発見されたパカル王の墓が有名で、復元展示されている。

 

幼児の甕棺墓。

 

復元されたパカル王の墓。

1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスが「碑文の神殿」の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、数多の装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。

翡翠の仮面をまとったこの遺体は、7世紀に在位したパカル王(位615~683年)と解明された。

マヤの古代都市遺跡にはピラミッドが多く見られるが、それは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきた。この発見はその定説を覆し、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こすこととなった。

 

パレンケ王のヒスイの仮面。ルスがパカル王の石棺を発見した時、王の顔には豪華なヒスイの仮面がつけられていた。ヒスイをモザイク状に組み合わせた仮面で、ヒスイの緑色は、マヤ人にとって最も高貴な色とされ、祈りと運命のしるしであった。

 

若干12歳で王位を継承したパカル王は68年の治世を誇り、パレンケは目覚ましい発展を遂げた。

パカル王墓に埋葬された殉死者たち。

世界遺産パレンケ遺跡 メキシコ旅行記から ③水源の滝 遊歩道とマヤ人の住居跡