僕は絵が好きです。

 

*いま、「ぼくはえがすきです」を日本語変換したら、

『僕ハエが好きです もやもや

と表示された!ニヤニヤ

 むかつき ちがうだろ~*

 

 

 

僕は絵を見るのが好きだし、絵を描くのも好きです。

 

ちなみにこちら下矢印は、

昔、僕が描いた絵です。

 

 

 

これはご存じのように、有名な画家ルノアール(ピエール=オーギュスト・ルノワール)の「模写」です。

 

すこし悪い言い方をすると「贋作(がんさく)」ですよね ニヤニヤ

贋作と言うほど本物にはぜんぜん似てないんですが・・・・ニヒヒ

 

 

ちなみに、Google Lens で僕の絵を画像検索してみた結果がこちらです 下矢印

 

 

 

Google Lens君も、いちおう「スイカツリーの絵はルノアールに似てるよね」って保証してくれた ウインク

 

 

この絵は、高校の授業のときに、模写の練習として描いたものです。

「自分の好きな絵を模写しなさい」と先生に指示されて描いたもの。

美術の授業は1回2時間で、この絵は4時間で描きました。

 

 

この絵を描いたことがきっかけで、

僕は「本物って何だろう?」と思うようになりました。

 

●絵の「価値」ってなんなんだろう?

 

●「絵」そのものには、本当は金額的な価値などないのではないか?

 

この自分の問いに結論は出てないし、結論を求めてるわけでもないんだけど 真顔

 

 

 

 

 

最近は生成AIによって描かれた絵やマンガ、アニメなどが問題になることがあります。

 

また、

「なんだこれ?これがまともな絵なの?」

と思ってしまう「絵」に異常な高額が付いていることがあります。

 

たとえば、僕はピカソなんていまだに理解できません ニヤニヤ

なんであんな絵にあんな値段が付くのだろうと思ってしまう。

 

 

 

僕の考えなのですが、

「専門家でないと区別できないほど精巧に描かれた絵なら、どうしてその絵は評価されないのか?」

本物ソックリの絵なのに、なんでその絵が「良い」と評価されないのだろうかと思うのです。

なんかおかしいです。

 

 

 

たとえば、絵には

(1)はっきりと表面に凹凸(絵の具のでこぼこ)があるもの

(2)表面がほぼ平らででこぼこしてないもの

がありますよね。

 

(1)の方は、もし写真で撮影しても、たぶん本物の絵には見劣りします。

絵の具のでこぼこは写真で再現するのは限界がありますから。

 

でも(2)はどうでしょう?でこぼこはないのです。

解像度が高く精巧な写真なら、別にどっちだって同じなんじゃないかって、僕は思ってしまうかも。

 

(1)も(2)も、「絵の具の発色」などを写真でどこまで再現できるか?という問題はると思います。

そこは写真家の腕にかかっているわけで。

 

 

 

では、写真ではなく贋作の場合はどうか?

 

贋作は「実際に絵の具を使って描かれた贋作」に限っていえば、専門家でないと区別できないほどソックリに描かれてるのなら、それって本物となにが違うの?それで十分じゃん!・・・って僕は思ってしまうのです。

 

 

こういう意見に反対意見を持つ人の大多数の人が最初に考えるのは、おそらく「描いた人が違う」ということだと思います。

 

つまりそういう人は、「誰がそれを描いたか」ということを基準にして、それを「本物」と「贋作」に分けて論じているわけです。

 

 

だけど、

その絵が本物と区別が付かないソックリな絵だった場合

どうしてソックリな絵のほうには「絵としての価値」がないと判断されてしまうのでしょうか?

どうしてその絵は1000円にもならないのでしょうか。

注:「そもそも贋作は売ってはいけない」という当然の話は置いといてですよ。

 

 

 

「ニセ物が高く売れたら、本物の絵を持っている人の資産価値を毀損するから」

という意見は、よくわかります。

 

 

だけど、それはそもそも「その絵の本当の価値」なのでしょうか?ニヤニヤ

僕は違うと思います。

僕が問題にしているのは、その絵の「資産としての価値」ではなく、「絵としての価値」なのです。

 

 

絵を純粋に「絵」として見た場合、区別できないほどソックリなら、ソックリな絵の方にも「絵としての価値を認めるべき」というのが僕の考えです。

 

 

 

有名な画家が描いたものなら、まるで幼稚園児が描いたようにしか思えない絵でも●億円の値段が付く。

もし、有名な画家が描いたという「真っ白なキャンパス」(なにも描かれていないように見える白い絵で、おそらく有名な画家が白い絵の具を使ってキャンパス全体を真っ白に塗りたくったというイメージで考えてください)が出品されたら、その絵はいくらになるのでしょうか?

 

おそらくは、その絵にも●億円の価値が出るのではないでしょうか?

絵の資産価値って、そういうものだと思ってます。

資産価値に、絵の価値は含まれてないのです。

 

 

 

これって結局、「絵」そのものに価値があるのではなく、「その絵を誰が描いたか」に価値があるということなんですよね?

 

 

どんなに精巧にどんなにすごい絵を描いたとしても、その絵を描いた人が本物の誰かさんでなければ、その絵には何の価値もない。

でもそういう価値基準って、ほんとに絵に対する正しい価値基準なんですか?って僕は言いたいのです 真顔

 

 

 

例えば、本物の幼稚園児が描いた「幼稚園児なら誰でも描きそうなありふれた絵」を、どこかの大金持ちが1億円で買ったらどうなるのでしょう?

 

まずそのことが世に知れたら何らかの評判になるでしょう。

そしてその絵を買った大金持ちが世に知られる有名人だったら?

評判はますます広がっていきます。

そして、その幼稚園児が5枚しか絵を描かず、「俺も欲しい」という人が複数人現れたら・・・。

 

その幼稚園児の絵が欲しいという人が複数現れたら奪い合いになりますよね?

だってこの世には5枚しかないんですから。

 

すると、欲しい人はおそらくその2枚目の絵を●億円で買うことになるんじゃないかな?って僕は思っています。

最初に買った人が1億円で買っているので、同じ幼稚園児が描いた絵に1000円の値段を付けるわけにはいかないのです。

もしそれをやったら、最初に買われた絵の「1億円」という資産価値が毀損されてしまう恐れがあるから。

 

しかし、僕などが見たらそれは「ただの幼稚園児の絵」

きっと僕は「お前には絵の価値がわからない」と言ってバカにされるのが落ちでしょう。

 

(注:こういうことを書くと

『その話には「もし」とか「だったら」が多いけど、仮定の話ばかり。仮定の話には議論する価値すらない』

と思う人もいるかもしれない。

でもそれは話の筋をそらしているだけだと僕は思う。

こちらの話の主旨を汲めない理解力がない人こそ、こちらの話に意見を言う資格はないと思う。)

 

 

だけど、そもそも、「絵の価値を感じる」というのは「感覚の問題」ですよね。

 

人間の感覚には正しい基準なんて付けることは絶対にできないのです(少なくともいまは)。

 

・これは美味しい

・この音楽が好き

・この匂いが好き

こういう「感覚」というものは、人それぞれじゃないですか。

「感覚」は、機械で精巧に正確に測定できるものではないと思います。

近似値として近いものを相対的に割り出すのがせいぜいだと思う(少なくともいまの技術では)。

 

 

最初に1億円で買われた幼稚園児の絵は、

最初に買った大金持ちがたまたまその絵が好きだっただけじゃないですか。

 

 

 

お金持ちの「個人の感覚」に、僕ら大衆はお金の力で付き合わされてるだけなんだと僕は思います。

あるいは、

美術品にむりやり価値を付けることで自分が持っている「物」の価値を釣り上げて儲けたいだけの大金持ちに、僕ら大衆がだまされてるだけだと思います。

 

 

こういうとき、一番正直なのは幼い子供ですよね。

幼い子供なら、変な絵を見たら

「へんな絵~ にっこり

って言うだけじゃないかって思う。

 

 

以下、最近実際にあった事件ですが。

間もなく開催されるアニメに関するイベントに出場する予定だった歌手が出場を辞退したそうです。

その理由は、主催者側が「AIによる絵」を使ったから。

おそらく考え方の根元に

 「アニメはAIで生成したら価値がない、人間が描いてこそ価値がある」

ということが頭にあるのだと思います。

 

それ自体には僕も賛同するけど、ただ・・・

気になるのは最近のアニメの作られ方。

昔はアニメーターが「セル画」という物を作り、それをカメラで撮影してアニメを作っていました。

しかし今はおそらく、コンピュータで作成していることの方が多いのではないかと思うんですが、これ、違ってますか?

 

もし今、アニメの原画からなにから全部をコンピュータで作成しているのなら、コンピュータのソフトウエアであるAIとなにが違うのか、というところも考えないとダメだよねって僕は思ったりします。

だって、コンピュータで原画を作るのってCGの一種であり、AIが生成するのもCGの一種ですから。

違いは「その絵を誰が創造するか」の違い。

 

*CG:

「Computer Graphics(コンピュータ・グラフィックス)」の略。

コンピュータを使って描かれた図形や画像のこと。

 

 

なにが言いたいかというと、「人間が作ることに意義を感じ、こだわる」のなら、いっそのことセル画を描いていたあの時代までさかのぼったらどうか、ということです。それが「こだわり」なんじゃないかって。

 

僕はそもそもセル画で作られたアニメで育った世代だったので、「アニメの原画をコンピュータで作ってる」という話を聞いたときにすごい違和感を感じていたのです。

アニメのキャラクターの輪郭線を描くとき、人間がペンを使って描く場合、まったく同じ線はたぶん二度と描けないのではないかと(ナノ・レベルの微細な話ね)。

でもコンピュータだと、同じ線をいっくらでも複製できちゃうじゃないですか。

「そこに価値はあるんか?」って話ですよ。

 

 

どうせ人間にこだわりたいなら、セル画までこだわって欲しいですね。

僕はそう思います。

 

 

僕は、幼稚園生のような素直で純粋な気持ちで絵がみられる人でいたいと思います。

(幼稚園生のような思考のお前に言われたくないとか言うなよ ニヒヒ

 

自分が持っている価値観を、大金持ちには振り回されたくないよね。

 

 

 

ちなみに僕の絵は模写なので他人には絶対に売りません。

売ったら罪になります(模写だとはっきり告げても売るのはダメなのです)。

↑その前に、買う奴なんていないさ ニヤニヤ

おうちに大事に飾っておきます。

 

 

 

 

ではでは バイバイ