昨日は朝、もう一つの思い出の場所(樹齢1000年超えの楠が神々しい神社)に寄ってそれから帰路についた。

帰りに大阪経由して居住地に戻った。

途中外国人に道を尋ねられて、英語で返答できた。嬉しかった。

あべのハルカスによった。美術館もみた。

しんどさがいつの間にか消えていて、たくさん歩いたのがよかったのかなと、実家生活で調子がよかった時と重ねた。

でもなんでか

帰宅してからはゲームユーチューブ三昧をしてしまった。ゲームで夜更かしも。

今日は9時過ぎに起床。

昨日の反省しながら、でも何もする気が起きずゴロゴロしていた。

昼過ぎにやっと動き出し、筋トレをした。


実家生活と何が違うか。緑地の周囲での散歩と、瞑想をしていない。


今日は散歩に手頃な緑地を見つけるためにあちこち候補を探した。最後によった雑木林が良さそうだ。

買い物をして晩御飯を食べて、少し勉強して今に至る。


ふと昨日の夜の崩れの原因を考える。

足りないものを自覚した時に、「結局全然だめじゃないかよ」と0 or 100思考に似た崩壊をしていることに気がつく。

今回の場合足りないものはすぐにはっきりしなかったけど、直前の体調の低下などが、不安を駆り立てた。


心も体も健常な時は、よかったことはよかったこと、足りないものを自覚すればそれはでそれを充足させるように動いていた。ような気がする。

がっかりしてそのがっかりが大きくて、全部台無しだとと考えてしまう。それが今の病理。

まあ、体調の落ちなどが悪い味付けになって強く心に映るのだろう。

いいものはいいもの、できんかったことはできんかったこと、疲れているは疲れている、そういったそれぞれの事象を独立して考えれば良い。


それと、足りないものが目についた時に、他に何も手につかなくなっている状態になるけど、

これまた元気だった時のことを引き合いに出すと、

元気だった時も他に何も手につかなくなってたけど、その代わりに短期間はその足りないものを充足するために比重をおくようにしていたなそういえば。

そうやって成長を早めようとしていたような気がする。

足りないものが目についた時に、何も手につかなくなってしまうという今の負の側面は裏返せば一つの長所の起点にもなっていた。

今同じことしても空回りそうな気がするけど、ただ俯瞰して、そう思った。


あちこち走り回って、途中ごみ収集所の側を通った時にあなたと一緒にみかんの箱を捨てに行ったことを思い出したよ。やっぱりまだしっかり涙を流す程度に思い出す。