ハリウッド映画で使われる英語には、結構汚い言葉やスラングっぽい表現、よく使われるのだけれど普段はあまり使わない方が良い言葉が実にたくさん出て来る。

先日のことだが、私の知り合いのとある人に、ハリウッド映画では非常によく出て来るある英単語を教えてみた。

その人は、基本的に英語が上手というわけではないので、まぁ普通の日本人だ。英語は中学、高校と特に苦手だったわけではないだろうが、特に得意だったわけでもない。

当然のことながら、彼女はハリウッド映画の英語を生で聞き取ることができない。字幕に頼って理解している。

ところどころ知っている単語や表現を認識することもあるだろうが、ナチュラル・スピードの英語には慣れていないし、まぁ概ねほとんどわかっていないだろう。

私がちょっと悪戯心を持って彼女に教えた単語はコレだ。

まずは試しにカタカナで表記してみる。(カタカナでは不正確になってしまうが、とりあえずは妥協的表記ということで)

ボーシェッ」(太字は強く発音する部分。スペルはこのページの一番下に)
(な~んだ、そんな単語かい!と思ったあなた、あなたは少なくとも英会話初級クラスではない。おそらく多くの普通の日本人はこの単語を知らないのでは、と思う。)

まぁあまり上品な英語ではないことは確かだが、この単語の使用頻度は実に相当高い。

私の知る限り、ハリウッド映画でこの単語が1度も出てこない映画はほとんど皆無だと思われる。それほどまでによく使われている。

で、彼女にはスペリングはあえて教えなかったけれど、その意味はちゃんと解説しておいた。

発音に関しては、いわゆるナチュラルなアメリカ英語の音しか聞かせなかった。聞いたままに真似するよう伝えると、彼女は5~6回だろうか、聞いた音だけを頼りに、何度かリピートした。

最初はうまくつかめなかったようだが、それでもだんだんと本物っぽい発音に近づいて来た。これくらいだったら、まあ普通のアメリカ人が聞いても理解できるだろうなぁ、というレベルの発音ができるようになった。(耳だけを頼りに、先入観なしで全く知らない単語を口まねすると、結構すぐに上手な発音で言えるようになる。英語がうまくない人でも実は意外にできるものだ。)

ここが重要なのだが、この単語は彼女にとって、完璧なファーストインプットだったのだ! つまり、何の先入観もない状態で、全く新しいコトバとして、その「ボーシェッ」というコトバをインプットすることに成功した、という訳だ。

だから彼女にとって、この「ボーシェッ」は「ボーシェッ」以外のなにものでもなく、誰かが「ボーシェッ」と言えば「ボーシェッ」として完璧に理解できるという理想的な学習状況が成立したことになる。

そして、ハリウッド映画を見たときに、(私が予想していた通り)大変面白い状況が起きることとなった!

何の映画だったか忘れたが、そのハリウッド映画にはやはりというべきか、その「ボーシェッ」が出て来たのだ!

彼女は「あっ……!!!」という感じで、目を輝かせる!

「あ、言った言った! ほんとに言ってる!」

彼女はハリウッド映画のナチュラルスピードの英語が非常にクリアに、完璧に聞こえたことが嬉しいよう!

さらに、その映画にはその後にもこのコトバが何度か出て来たが、その度に彼女はそれをピックアップすることができたようだ。その単語が出て来る度に、ストーリーの展開とは無関係な場面で妙に喜んでる!

そして映画後のコメント。

「こんなにクリアに英語のコトバが聞こえたのははじめて!」とのこと。以後、ハリウッド映画を見る度にこのコトバに遭遇し、なぜかこのコトバだけがハッキリと聞こえてしまうらしい…。

まぁ、めでたしめでたしといったところか。

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ちなみに、このコトバはスペルで書くと「bullshit」となる。
あまり綺麗な単語ではないから、そんなに頻繁には使わない方が良いと思う。まぁTPOに気をつけて使ってね、というレベルの単語。
意味としては、「嘘っぱち!」みたいな感じ。本来は「牛の糞」という意味だから、それくらいに価値のないたわ言…のような意味合いで使われ始めたと思われる。なにしろハリウッド映画にはよく出て来る。

ちなみに、彼女がそれほど喜んでくれたので、次にはちょっと趣向を変えて別の単語を教えておいた。これも英語の会話にはよく出て来るが、英語中級くらいの日本人が使うのをあまり聞いたことがない…という単語。

「absolutely」

これも当然ながらスペルを教えずにナチュラル発音で教えておいたから、彼女は次のハリウッド映画でこの単語を聞いたときには、間違いなく聞き取り&理解ができるだろう。彼女の喜ぶ姿が楽しみだ。

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さて、第2回目のブログは、私自身の話。

かつて幼少時代の頃、我が家にはある習慣があった。

お風呂に入ったとき(幼少時代だから基本的に両親と一緒に入る。)、ある儀式をしないと私はお風呂から上がることが許されなかったのだ。

その「ある習慣」とは(おそらくこの国ではきっと珍しかったと思われるが)、身体を洗い終わって、最後にお風呂に浸かる。そして風呂桶から出るためには、英語で1から10まで数えないといけない…というもの。

もちろん日本語ではダメだ。

というのも私の父が、当時としては珍しく英語大好きで(というより仕事上英語だけの環境にいたこともあり)、私にも英語をうまくなって欲しかったのだと思う。

それもただ適当に英語っぽく数えれば良いというものでもない。

できるだけ良い発音で、そう、何と驚くことに可能な限りネイティブに近い発音1から10まで数えなければお風呂から出してもらうことができなかったのだ!

もちろん、当時の私(おそらく小学校に入るか入らないかくらいの頃と思われる)には、日本語っぽい発音とかネイティブっぽい発音なんて区別はなかったので、単純に父の発音を聞いたまんま真似て、英語で1~10まで数えてお風呂を上がったという記憶が残っている。

言ってみれば「スパルタ式英才教育」と言えないこともないが、私としては特にそれがイヤだとか、どうだとかという思いすらなかったと思うので、子供であった私は単なる一習慣としてしか認識していなかったのだと思う。

それ以外にも、幼少時代には父からいろいろな英語の単語の発音をさせられていたような記憶がある。

「テイボー」だとか「ソゥファ」とか…家の中のものだったり、それ以外だったり(あとはほとんど覚えていないけど)、きっといろいろな単語を言わされていたのだと思う。(ちなみに最初のヤツは「TABLE」で次のは「SOFA」ですね。)

これは、実は後になって相当に役立ったのだと思う。

なにしろ、私は中学以降、英語の発音に関しては苦労したことはなかったから…。
(あ、思い出した、たとえば中学のときに、学校の英語の先生にその発音は違うんじゃないかとクレームをつけたことさえあった……むむむ、ちょっとイヤな生徒だったかも…)

その後、私は19歳の時にアメリカの大学に留学したのだが、留学当初、英語力自体は全然大したことはなかったのに、発音だけは何故か良かった。

確か、留学する前に受けたTOEFLのテストのスコアは480点くらいだったと思うので、英語の本当の実力としては語彙は足りないし、表現もあまり知らないし…という感じだったのに、簡単なことを喋る限りにおいてはきっと結構上手に聞こえたに違いない!(もっともそのアンバランスさによる弊害は後からいろいろと痛感することになるのだけれど…)

なにしろ相手の言うことがわからないことはあっても、自分の言うことが(発音が理由で)通じないことは決してなかったので、ちょっと不思議な留学生だったはず!(きっと相当アタマ悪そうに見えたに違いない…

留学した期間は約1年ちょっとだけだったものの、場所柄(アメリカ中西部)全くといっていいほど日本語を喋る機会がなかったのは、後から考えると非常に良いことだったかもしれない。

なにしろ、1年後に日本に帰って来たときに、日本語が微妙に不自然になっていたくらいだったから…。(たとえば、「えーと」とか「そうだなぁ」みたいな考えるときに無意識に出て来るコトバが、日本語では出てこなくなっていたり…とか)

細かいことを書くとちょっと長くなりそうなので、留学中のお話などはまた近いうちに。
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さて、「まるでネイティブのような英語の発音を身につけるための知恵や方法を探るブログ」(長いキャッチフレーズだ…)が今日、この日からスタートする。追って私の自己紹介なども書いていこうと思うが、今日のところは、まずはプロローグとして、日本語と英語の大きな大きな特性の違いについて書いてみようと思う。

日本語と英語…このあまりに違う2つのコトバは、それを使っている(喋っている)ときの(そう、発音の話ではなく、まずは脳ミソの話だ)の使い方が相当に違う!

私が非常に大きいと感じるのは「気配り依存度」の差。

もし仮に英語を基準点とするなら、日本語はまぁいろいろと気を使わなければいけないコトバだ。グローバル基準(というのがあるかどうかは別として)から見ると我々日本語ネイティブたちは相当に気配り上手だということになる。

たとえば、日本語を普通に話しているときに無意識でこのようなことを考えてはいないだろうか…

この人の年齢はどのくらいだろうか? 敬語を使った方がいいだろうか?
こんな言い方をしてしまっては、立場的に失礼にあたってしまわないだろうか?」とか、
何故なのか理由を知りたいけど、ちょっと立場的に言いづらいなぁ…。別の質問をしてみるか…」なんてケースもあるかもしれないし、
取引先だから、明らかに年下の若い人だけれど敬語を使うか…」などと考えることもあるかもしれない。

また、主語をあまり言わないのも日本語の特徴なので…
え?それは誰のことを言っているの?…あぁ、あの人のことね。」とか
え?そう感じているのはあなたのこと、それとも他の一般大勢のこと?
え?それは誰に聞いているの?私?」なんて、人の話を聞きながら、脳は結構いろんな推察をしてる。

さらに、発音の種類が少ないからか同音異義語が多いのもまたその特徴で、漢字系のコトバの場合には特にそうだが、前後の文脈から適切な漢字を推察して意味を理解するということをかなり無意識にやっている。たとえば…

ケイケンということかな…まぁシンジンのうちはよくあることさ」というコトバを聞いたら普通は
「経験ということかな…まぁ新人のうちは良くあることさ」と理解できるのは実は推察のおかげだ。(「敬虔ということかな…まぁ信心のうちは…」とはおそらくならない。

デンドウのホウホウとしてはサイコウだ。」の場合はもう少し難しくなる。
もしかしたら「電動の方法としては最高だ。」かもしれないし、文脈や言い方によっては、
「伝道の方法としては再考だ。」となるかもしれない…。(多少無理な例だろうか!?)結構慎重に話し手の状況や前後の文脈を見極めなければならないケースはいろいろとあるだろう。

というように、推察や憶測、そして相手を慮る「気配り」という部分に、脳のCPUの相当部分を働かせながら話したり聞いたりするのが日本語だ。言ってみれば、日本語は「気配り依存言語」だということになる。

ところが、英語の場合はかなり違ってくる。

もちろん人により微妙な差異はあるだろうが、立場がどうというよりは、もっと明確に自分としての話したいことを正確に的確に表現することが求められる言語のようだ。

だから主語が省略されることはほとんどないし、相手の立場によって自分の話す言葉そのものが違って来るということもあまりないだろう。

また、発音要素の数がはるかに多いため同音異義語が少なく、聞く側が推論で補う必要性があまりないということも特徴だろう。
(このあたりがアメリカ本土でよく起こる「レストランでのカタカナ英語の悲劇」の理由になっているのかもしれない。そう、注文したはずの品とは全く違うものが出て来てしまう…というアレだ。相手はあまり言語の背景を推察することに慣れていないから、聞いたまま、勘違いしたままのものをそのまま用意してしまうのだ…)

そう、別の言い方をすると、英語の場合には、相手に推察の余地を多く残す話し手は良い話し手とは言わないのだ! 明確に正確に、疑問の余地がないほどにすべてをハッキリと伝えられる話し手こそが、Good Speakerということになる!

で、そのGood Speakerであるための条件ということになるが、つまりは以下の要素を兼ね備えていなければならないという道理になる。

1 相手の立場どうこうを考える前に自らの立ち位置を明確にする。どんな人でどんなことができ、何をしたいのかをハッキリ伝えられること。(つまりは、相手の立場ではなく自分の立場に合ったコトバを話せということですね。)

2 コトバはなるべく正確に、誰が何をどうするのかを明確に言語化して伝えられること。(つまり、論理的に正確な文章でかつ的確な単語を使えることですね。)

3 そして、そのすべてを音声として完全に相手に伝わるよう話せること。(つまり、発音やイントネーションを正確にしろということですね。)

そう、英語を話すときに大切なのは「気配り」よりもまずは上記の3要素だというのが実は私の分析だ。
(おっと、もちろん相手への「愛」や「思いやり」があった方が良いというのは言うまでもないことだけれど…「愛」に関しては万国共通だと思うので。また、さらに言えばユーモアもあった方が良い。「ハート」をゲットしたいなら、その前にまず「笑い」を取れ! というのも結構インターナショナルな方法であるに違いない!)

この3つの法則の中で1番目の「自分の立ち位置で」というのは実は意外に知られていない気がする。つまりは相手が大統領だろうと、GMの重役だろうと(微妙…)、マクドナルドの店員だろうと、同僚だろうと、コトバはあまり変えない方が良いという日本語とは全く違う概念だ。相手が偉い人だからと突然丁寧なコトバに変化させるというのは、英語の世界観では結構不思議なことだと思う。

そして、2番と3番に関わってくるのが、「音声」の重要性ということ。アルファベットという「表音文字」を使うことからもわかるように、英語はほぼ完全に「音声」に依存している。

書き言葉のひとつひとつの文字には実は全く意味はない。全ての単語はそれが音声化されたときにはじめて意味を持ってくる。だから英語では音が重要なのだ。

つまり、英語は「音声依存言語」、言い方を変えれば「正確な発音」に依存した言語ということになる。逆説的に言えば、だから英語にはあんなにも発音要素の数が多いのだ。母音だけで22個、子音だけで24の発音要素があるのも、正確にコトバを伝えたいからそうなった…という推論はあながち間違いでもあるまい。(発音要素の数の数え方には何通りかあります。)

だから英語は発音が重要。ここまでは確信を持っていえる。

でも、だからと言って完全にネイティブと同じである必要があるか?

というのはまた別のテーマ。

これは次回以降に書きたいと思う。


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