マタイ10:5~15




【選ばれたのはロクデナシばかり】


前節10:1~4に登場する弟子たちは「十二使徒」と呼ばれ聖人扱いされている。

しかし、イエスを権力側に引き渡したユダを筆頭に、イエスが捕縛され十字架刑に処せられた時、彼らはみなイエスを捨てて逃げ隠れした。

イエスは選りに選って、愚かで弱く自分が生き延びるのに必死な、およそ「神の使い」としてふさわしくないような連中を自分の名代として選抜し、派遣したのだ。

いやむしろ、ロクデナシだからこそ選ばれた、としか思えないような人選なのだ。
(だからこそ、そこに我々愚者の救いがある!)



【身体一つで行け】


今日の箇所でイエスは、その心許ない弟子たちに、使徒としての仕事内容を伝えている。

それはとても単純だ。

イスラエルの全国土を歩き、「神の国は近付いた」と人々に告げよ、というのだ。

しかも、路銀も杖も、着替えも替えのサンダルも持っていかなくていい。

泊まる場所も心配するな、という。

要は「身体一つで行け、明日の生活は心配するな」ということ。

まるで、「空の鳥」「野の草花」と同じように。



【本当に何処に行っても受け容れてもらえるのか?】


今日の箇所を基に、過去2000年間、数多くの宣教師たちが他国での宣教に命を懸けた。

神の言葉を信じて、身体一つで海を渡った。

縁もゆかりもない未開の地に独りで渡ったと私は思い込んでいたが、実はそういうことではなかったらしい。

キリスト教の宣教活動と、彼らを派遣した母国の企業家たちの経済活動は表裏をなしていたのだ。
ヨーロッパの企業家たちの経済侵略に宣教師たちが利用されていた、ともいえる。


そこまでひどくなかったとは思うが、マタイによる福音書が編纂された時代でも、既に教会の名代として宣教活動をする者たちを受け入れるネットワークは存在していたのだろう。

Aという村に行けばBさん宅を訪ねよ。
Cという町に行ったらDさん宅に泊めてもらえ。
といった風に。



【引き取り手のない遺骨】


震災後の福島で「引き取り手のない遺骨」が問題になっている。

避難所や仮設住宅で亡くなったお年寄り、その方の遺骨を県外に住む家族が引き取りにこない。

連絡先が分からないケースもあれば、連絡はつくが一向に引き取りにこないケースもあるという。

お亡くなりになりました、と伝えて、翌日電話をしたら、番号を変えられていたケースもある。

除染作業や原発での事故収束作業のために県外から来る期間労働者が亡くなった場合はさらに遺族との連絡が困難だという。

亡くなった本人の名前や住所すらすべて虚偽で、その人が本当はどこの誰かも分からないケースも少なくない。


無論このようなことは福島に限らない、特養ホームでも日常的なことだ。

都会の独居老人なら、家族との連絡もつかない、ついたとしても遺骨の引取りに誰もこない、なんていうことは珍しくない。

普通に暮らしているように見えて、実は一人一人が隔離されて生きているのではないか、と思えるほど、私たちは繋がりから疎外されている。



【手を離さないで】


私たちは所詮一人で生まれ、一人で死ぬ。

しかし、生きている間は一人では生きられない。

もちろん一人でも生きていける人もいるだろうが、圧倒的多数は「誰かの支援がなければ生きていけない」のだ。

マタイの時代のキリスト教会が持っていたネットワークのように、

身体一つで、お金のことも家のことも飲み食いも着替えも、何も心配しなくて済むようなネットワーク(つながり)が、今の日本にこそ、本当に必要とされている。



独りの人がいたら手を繋ぎにいく。

自分が孤立していたら、差し伸べられた手を握りに行く。

そして、繋いだ手は離さない。

それは簡単なことではない。

自分のものも含めて、その手は美しいものばかりではないからだ。

繋ぐにしろ、繋いでもらうにしろ、それはとても勇気がいる。

それでも私は手と手を繋いでいたいのだ。