マタイによる福音書11:25~30



【無理難題】


繰り返しになるが11章は読めば読むほどしんどくなる。

イエスの弟子として宣教に派遣されるとは、こんなにしんどいことなのか!

こんなことを求められても自分には無理だ、と思える。

イエスに倣い、イエスのように「寄り添う者」「手を差し伸べ触る者」として生きることは、

途轍もなく重い荷物であるように感じるのだ。



【もう一つの約束】


私はここを読むときいつも、マタイ5章を思い出す。

十戒に書かれていることをさらに徹底してやってみろ!という要求が書き連ねてある箇所だ。

たとえば不倫の禁止、どころか、女性を見て欲情するだけでダメなのだ。目を抉り出して捨ててしまえ、とイエスはいう。(5:27~30)

努力することすべてが徒労に終わるようなことばかりが書かれていて、自分はイエスの求めに応じられないどうしようもないロクデナシだと、自分に絶望するしかなくなったとき、
イエスは一つの約束を与えてくれた。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となるだろう」(5:48)

日本語訳では「なりなさい」と書かれているが、ギリシャ語本文では「なるだろう」という未来形で書かれている。
つまり、こんなに不完全な私でもいつかきっと神様の力で完全な者にしてもらえる、という【約束】がここには書かれているのだ。

そして、ずっと読み続けてきた11章にももう一つの【約束】が書かれている。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

私たちは疲れ果てている。誰にも邪魔されず横になって休みたいと願っている。

私たちは重荷を背負って生きている。それを下して、大きく息を吸いたいと願っている。

そのどちらも、やっていい、とイエスは約束してくれている。

どこにも居場所のなかった私たちの居場所になるという約束がここにはある。

それがなぜ実現するのかというと、イエスがすでに私たちの重荷の全部をその肩と背中に負って下さっているからだ。

イエスがすでに私たち以上に疲れ果てて、足を引きずり、よろめきながら、私たちの傍らを歩いていて下さっているからだ。



【安全な居場所をつくる、という軛】


寝屋川の中学生2人が惨殺された。

深夜、夜の街を徘徊するような子どもたちなのだから犯罪に巻き込まれるのだ、とか

子どもがフラフラ出歩いていて気にも留めない親は一体何をしてたんだ、とか

被害者とその家族への心無い批判がネット上で書き込まれているのを見ると胸が痛む。


学校にも家にも地域にも、居場所がない子はいる。

取り立てて問題を抱えてなくても、これらのどこにも安住できない子はたくさんいる。

終電車が出た後の繁華街を歩いてみればすぐ分かる、路上に、コンビニの前に、オールナイトのファストフード店に、10代の男女が無数にいる。

犯罪に巻き込まれたり、風俗の世界に身を沈める子もいる。

「うちは家出娘たちのシェルターだよ!」と嘯く風俗店経営者もいる。

どこにも行くところがないから、ここにいるんだ…という家出娘、家出少年たちに、もっと安全で安心できる居場所が提供出来たら、小うるさいことは言わず黙って温かい食事と寝床を提供出来たら、そういう場所が沢山あったら、寝屋川の悲惨な事件は起きなかったのではないか。


イエスはいう「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」(11:29)

私が負うべき重荷のすべてをイエスが引き受けている、私が負うのは軛そのものの重みだけだ。
それも、半分はイエスが担いでいる。
だからイエスと一緒に軛を負ったとき、私は荷は軽いと感じる。

しかし、軽いかどうかは、実際に、イエスと一緒に軛を負ってみないと分からない。


居場所のない私たちのためにイエスは居場所を作って待っておられる。

それを真似て子どもたちのために居場所を作るということに私たちは取り組もうとしている。

それが一体「軽い」ことなのか「重い」ことなのか、やってみないと分からない。

イエスはすでに「子どもたちのために安全な居場所を作る」という重荷を全部負って下さっている。

一緒に担ぐ、あとはそれだけなのだ。