マタイ12:22~32



【見えない・聴こえない・話せない】


確か小学校1年生の頃だったと思う。

学校でヘレン・ケラーの話を聞いた時、息が出来ないくらい胸が苦しくなった記憶がある。

目が見えない、という状況を想像しただけで、悲しく辛くなった。

大好きな父や母や姉の顔が見れなくなる、手で触れば分かると先生はいったけれど、声を聞けば表情は分かると先生はいったけれど、そんな不安なことはない、と思った。

家族が悲しい思いをしていても元気な振りをされたら、自分はどうしたらいいのだろう、と思った。

ヘレン・ケラーはしかも、耳が聴こえなかった。

見えない上に聴こえない!

自分がもしそうなったら、一体どうやって周囲の様子を知ることが出来るのだろう、とますます悲しくなった。

ヘレン・ケラーはさらに、話せなかった。

このことが、私を最終的にとても絶望的な気分にさせた。

家族に自分の一日を伝え、今の気持ちをしゃべるのが大好きだった私は、言葉によるコミュニケーションが奪われることに耐えられなかった。

嬉しいこと、楽しいこと、不安なこと、辛いこと、悲しいこと、好きなこと、嫌いなこと、言葉にいい表せないモヤモヤした気持ちのこと…これらを信頼する人に、自分が納得できるまで話す。

それが出来ないのなら、自分は死んでしまうだろう、と思った。



【奇跡の人】


「奇跡の人」という戯曲がある。

ヘレン・ケラーに三重苦を克服するため、ヘレンに寄り添い続けた家庭教師アン・サリヴァンの物語だ。

生まれつき見えない・聴こえない・話せない人に世界との繋がりを気付いてもらい、双方向のコミュニケーションを創り上げた彼女は、まさに奇跡の人だ。

聖書のイエスは一瞬で奇跡を起こすが、サリバン先生は「奇跡」に至るまで、膨大な時間を費やしている。

寝食を共にし、自分の存在を知ってもらい、信頼してもらい、自分の伝えたいことを理解してもらい、ヘレンの思いを引き出し、声や文字にするスキルを伝えた。

自分ならどうする?と、想像してみる。

経験に基づく技法があれば誰でも出来る、というような生易しいものではない。

信頼関係を構築することだけでも至難だろう。

温かい表情、温かい声、どちらも相手には伝わらない。

一体どうやって、目の前のこの人に、私の存在、私の気持ちを伝えたらいいのか、思いもつかない。



【奇跡は一瞬で起きたのではない】


今日の箇所だけではなく、聖書の記事によると、イエスはヘレンに起きたような奇跡を一瞬で起こしている。

それに対してファリサイ派の人たちが「悪霊を追い出したのは、こいつが悪霊の親玉だからだ」と非難している。

私はこれらのことはリアルタイムで起きたのではないと考えている。

見えない・聴こえない・話せないという「差し障り」は治療できなかったけれど、イエスとその仲間たちによる手厚い支援によって社会復帰できた人がいたのだ。

イエスとその仲間たちは、寄り添い励まし、信頼関係を築き、見える人と同じように、聴こえる人と同じように、話せる人と同じように、暮らせる支援をしたのだ。

そのコミュニティの様子を見た人々や、その物語を聞いた後代の人々が、差別されることなくまるで健常者のように暮らすその人を指して、「奇跡が起きた!」と思ったり、「それは悪霊の親玉のなせる業だ!」と揶揄したりしたのだ。



【神さまから送られる風を受けて】


いずれにしても、私たちが直面している「差し障りを一緒に超えていく」ということは簡単なことではない。

出来る事なら手で触れただけで「障害」がなくなり、「健常」になってもらえたら、どんなに楽か!

12:20にあるように、私たちは「折れた葦を切り離さず、くすぶっている燈心を消さない」者であろうとして(経済効率優先の価値観からすれば「無駄」に見えるものでも、大切にし続け)日夜奮闘している。

しかし、目の前にある「差し障り」が大きければ大きいほど、支援することは難しい。

そのことの大変さに心は折れて、そこから逃げ出したくなる。

そのような私たちに対して、神様はいつも「風」を送ってくださっている。(※)

サリヴァン先生やイエス、イエスの仲間たちが起こした奇跡は、実は神様から送られてくる「風」に支えられている。

私たちが毎日奮闘し、心折れ、弱り果てている支援の現場にも、実は「風」が吹き込まれている。

私たちはその「風」を感じる者でありたい。

私たちはその「風」受け止める者でありたい。

そして、「風」に押し出されて、前に進む者でありたい。

と切ないくらいに祈るのだ。



(※)12:18「彼の上にわたしの霊をくだそう」、12:31~32「聖霊」とは「神の息」、「風」と同じ言葉。