マタイ13:35~43



【マタイの教会が抱えていた問題】


新共同訳聖書の「見出し」を見ながらマタイ13章を読んでもらうとよく分かるのだが、

■毒麦の譬え 24~30節
■毒麦の譬えの説明 35~43節
■天の国の譬え 44~50節
■天の国のことを学んだ学者 51~52節

は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の中で、マタイに固有の物語だ。

マタイによる福音書は、生前のイエスに最も近かった人たちが作ったユダヤ人たちの教会で編集された。

もっと言うと、イエスの兄弟や弟子たちが作った教会で、イエスの死後半世紀が過ぎて起きていた深刻な問題を解決するためにマタイによる福音書は編集された。

では、マタイの教会が抱えていた問題とは何か。

それは「誰が天国に行けるのか」ということ。

言い替えれば「誰が一番偉いのか」ということだ。



【一番偉いのは、弟子たちではない】


一番偉いのは誰なのか。

「イエスの肉親であり、その子孫だ」と主張し威張っていた人がいただろう。

「いや、イエスの直系の弟子が一番偉い。その孫弟子、曾孫弟子もエライ」といういって対抗していた人もいただろう。

12:46以下でマタイはイエスの肉親を否定的に扱い、前者の主張を退けているのだが、

今日の箇所では痛快なまでにイエスの弟子たちの愚鈍さ・無理解を際立たせている。


マタイは前段「譬えを用いて語る」で、「群衆に、イエスは譬えを用いないでは語られなかった」と書いた。

譬えを聴いた群衆は、その譬えを真っ直ぐ受け止め、理解し、そこに込められた真意を胸に前に進んだ、ということだ。

しかし、今日の箇所では肝心の弟子たちが、イエスの語った譬えの「説明」を求めているのだ。

これはほんとに衝撃的なことだ。

イエスの傍にずっといて、イエスをもっとも理解していたであろう弟子たちが実は、イエスの譬えを聴き取れていなかったのだから。


マタイがここで伝えたかったことは「一番偉いのは、弟子たちではない」「弟子だからといって天国に行けるとは限らない」ということだ。



【あなたの傍から離れない】


九州の地震。

自然の脅威に私たちは為す術を持たないが、大地の怒りが一日も早く鎮まってほしいと祈る。

被災し亡くなられた方のご冥福を祈る。

ご遺族に慰めがあることを祈る。

避難生活を余儀なくされている方々の心身の健康が維持されることを祈る。

そして川内原発・玄海原発・伊方原発で事故が起きないことを祈る。


私たちは不安で不安で仕方がない。

こんなに不安で、苦しく辛い毎日なら、いっそ早く死んでしまいたいとさえ思う。


そういう意味では私たちは、イエスの譬え話を直接聴いた群衆と同様、「不安に苛まれ、右往左往する羊の群れ」のようなものだ。

最後の審判で毒麦と判定されて焼かれてしまうのか、麦と判定されて天の倉に入れてもらえるのか、そんなことはもうどうだっていい!と思えるくらい、私たちは不安なのだ。

いや、一握りの権力者に搾り取られ、こんなに不安で苦しく辛い毎日を送って、虫けらのように死んでいくしかないのなら、せめて最後の審判では天国に上げてもらわなければ割に合わない、と思っている。

しかし、自分が麦なのか毒麦なのか、自分には分からない。

自分が地獄の火で永遠に焼かれるのか、天国の倉で平穏に過ごすのか、誰にも分からない。

自分が「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」(41節)なのかそうでないのかは、自分ではなく神さまが判断されるからだ。


では、イエスが譬えを通して伝えたかったことは何か。

それは「答えのない問いで悩むのは止めよう」ということではないのか。

「私があなたとずっと一緒にいるのだ、それだけで十分だろう?」ということではないのか。

「私はあなたの傍から離れない」。

そういって下さる方がおられるのなら、地獄に堕ちてもそこはパラダイスだ!