マタイ13:51~52




【律法学者】


今日の箇所には二種類の人間が登場する。

一つは無学で、恐らく文字の読み書きも満足に出来なかったであろうイエスの弟子たち。

もう一つは、ユダヤ教の律法学者たちだ。


律法学者たちの仕事は一言で言うと「神様の言葉を忠実に伝承すること」だろう。

福音書の中で律法学者はあまりいい印象では描かれていないが、彼らほど神の言葉をこの上なく大切にしている人はいない。

彼らはキリスト教でいう旧約聖書の一言一句を暗唱している。

それも口伝えで一言一句を正確に聞き覚えている。

書き写す際にも一言一句を正確に書き写す。

2000年前の写本と500年前の写本を比較してこの二つの間にほとんど違いがないことがユダヤ教の学者たちの情熱と誠意を表している。

律法学者は「書かれた神の言葉」に忠実である余り、それに拘り過ぎ、目の前で苦悩し生死の境を彷徨う人々の現実を共に生きることから遠ざかってしまった。

そこがイエスと彼らが相容れなかった部分なのだが、「本当に大切な一つのこと」について彼らは間違いなく知っていたし、それを大事にしていた。



【無学な弟子たち】


一方の弟子たちといえば、読み書きが出来たのは取税人のマタイと、銀貨30枚の価値を知っていたユダくらいのもので、他の弟子たちはペテロに代表されるような無学な労働者たちだった。

聖書に何が書かれているかも知らない、そこから派生した事細かな戒律も知らないから当然守ることも出来ない。

だから律法学者たちに蔑まれ、当時のユダヤ社会で差別の対象となっていた。

だからこそ、イエスは彼らを真っ先に弟子にしたのだが、

その彼らが、イエスの「天国のことが分かったか?」という問いに対して何の躊躇もなく「分かりました」と答えている。

しかし、私には彼らが本当にイエスの話を理解していたとは思えない。

多くの群集の手前、弟子という立場の手前、格好を付けるために分かった振りをしたのだろうと思う。

実際、彼らは、イエスが捕縛された時、全員が全員その場から逃げ去っているのだ。

ペテロはイエスが処刑される前夜三度も「私はイエスを知らない」と激しく、天に誓ってまでイエスとの関係を否定している。

イエスが復活した時も、弟子たちはみな故郷のガリラヤに逃げ帰る途中だった。

「本当に大切な一つのこと」が身にしみて理解出来ていれば、イエスを見捨てることはなかっただろう。

他の一切を捨てて「本当に大切な一つのこと」だけを持ち続けようと覚悟を決めていたのなら、イエスと共に十字架に架けられただろう。

しかし理解もせず、覚悟もなく、ただその場で見栄を張るために弟子たちは「分かりました」と答えたのだ。



【それでも一緒にいる】


イエスはそのような弟子たちに落胆されただろうと思う。

だからこそ、弟子たちの「分かりました」という知ったかぶりの後に、わざわざ敵対しているはずの律法学者の話をされた。

目の前で苦しみ死に瀕している「その人」と決して一緒に生きようとはしない、硬直した教条主義者の彼らを引き合いに出してまで、弟子たちの知ったかぶりを批判しておられるのだ。

「弟子であるお前たちよりも、神の言葉に謙虚なあの学者たちの方が天国に近いんだよ」といっておられるのだ。



翻って私たちはどうだろうか。

私たちは「いまさら訊けないこと」「知らないなんて決していえないこと」「仲間はずれにされることを怖れて知っていないとはいえないこと」をたくさん抱えている。

知らないのに知っている振りをして、自分を大きく見せて生きている。

死は突然やってくると分かっていても、死んだら何の役にも立たないと分かっていても、私たちは見栄を張り、お金や地位や名誉に執着し続ける。

イエスはそんな私たちにも落胆しておられるだろう。

「本当に大切な一つのこと」を忘れてあれもこれもと身の回りに掻き集めて醜く生きる私たちを見て、ため息をついておられるだろう。

しかし、それでもイエスは私たちを見捨てない。

最後の一人まで天国に連れて行くために、今もイエスは私たちの傍におられる。

だからこそ、私たちは愚かなことを繰り返しながら、オロオロとうろたえながらでも、前に進むことができるのだ。

いや、天国に持っていくことの出来ないものに拘って窮屈に生きている私たちは、それでも一緒にいてくれるイエスのお陰で、もっと自由に生きることが出来るはずなのだ!