マタイ14:13~21

 

 

【十字架への道の始まり】

 

この箇所に書かれている物語は、丁度マタイによる福音書のド真ん中に位置している。

降誕物語から始まった時系列からすると随分後の頃の話のように見えるのだが、

実はこれはイエスが公的な活動を始めた時の様子を描いているのではないか。

 

バプテスマのヨハネが惨殺されたことを告げられ、自分に「その時」が来たことを知ったイエスは、いよいよ望まれていることをやり始めたのだ。

 

そして、マタイによる福音書では、この後イエスは脇目もふらず一直線に、十字架に向かって突き進んでいく。

 

 

【イエスが最初にしたこと】

 

では、「その時」を悟り受け容れたイエスが最初にしたことは何だったか。

 

いきなり病人を癒し(14節)、空腹の群集を僅かな食材で満腹にさせた(20節)のかと思いきや、イエスが取った行動はひとりぼっちになることだった。

岸辺に集っていた群衆から船に乗って逃れ、人里離れた岸辺に行き、イエスは祈ったのだろう。

出来ればこの使命から逃れさせてください、と。

捕らえられ十字架につけられる直前、ゲッセマネで祈ったように。

 

私はイエスのこの逡巡に非常に安堵させられる。

自らの「その時」を悟り受け容れ、覚悟を決めたはずのイエスが、それでもまだ惑い苦しんでいる姿に、その人間臭さに、ホッとする。

悩み、苦しみ、のたうち回りながら、揺れながら、逃げ出したい気持ちを抱えたままで、ある意味「厭々ながら」イエスは前に進もうとしている。


そうだ、イエスでさえ自らに課せられた使命に向かって真っ直ぐ進んだ訳ではなかった。
イエスは決して手の届かない存在ではないのだ。

私たちは迷っていい。

私たちは苦悩していい。
立ち止まり、脇道に逸れ、しゃがみ込み、天を仰ぎ、はらはらと涙をこぼす。

それでも私たちの日々は決して徒労には終わらないのだ。
 

 

【つながりの中へ】

 

一人ぼっちで祈っていたイエスは、いつの間にかまた群集に取り囲まれていた。

取り囲んだのは、ヨハネがしてくれたように癒されたいと望む人々だった。

空腹から開放されたいと望む人々だった。

 

イエスはこのとき、いよいよ行動を起こす。

 

病人を癒し、二匹の魚と五つのパンだけで五千人の群集を満腹にしてしまったのだ。

 

深い憐れみによって、祈りの力によって、病気が治るということは実際にある。

五千人の給食の話は、それだけの食事を群集に供給できるチームと支援者が既に存在したのだと私は考えている。

しかし、話の中心はそこにあるのではない。

イエスがしたことの中心は「つながりから疎外された人を、つながりの中に回復する」ということだった。

 

今の日本の国で、私自身も含めて、本当に困窮した時に、遠慮なく助けてもらえるようなつながりの中にいる人はどれだけいるのだろう。

生き辛さの元になる「差し障り」(障害)は、その人にあるのではなくて、そうさせてしまう社会の側にある。

誰も孤独にしない、真っ直ぐ見る、手を差し伸べる、一緒にいる。

それを形にしたいと切望する。

 

たった一年しか社会的な活動をしなかったイエスの生き様が、二千年経っても私の心を揺さぶるのは、イエスがつながり続けた人だったからだ。

イエスのように、つながり続ける人でありたい。