コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:42~49

 

 

■私たちは神さまのアイコン

 

創世記によれば人(アダム)は神さまに似せて作られたそうです

つまり私たちは神さまの似姿(イコン、アイコン)なのです

 

SNSをする人は

自分を代表するものとしてアイコンを使ってますよね

「この人のアイコンはよくできてるよねー」とか

「全然本人のイメージと違うよね」とか

 

そう考えると

神さまは自分の考え方や生き方、イメージ、雰囲気を代表するもの(アイコン)として

私たちを使っておられるということになる

 

それはまあなんというか

とても畏れ多い話で

有難い、尊い話だと思います

 

親しくさせていただいている真言宗のご住職がよく

「あなたの中に仏がおられ、あなたの隣の人の中にも仏がおられる」

「更にいえばあなたが自信が実は仏であり、あなたの隣の人もまた実は仏なのですよ」

「だから私たちは自分自身に手を合わせ、お互いに手を合わせるのです」

といわれるのですが

まさにその通りかと!

 

 

■相応しく生きる苦しみ

 

この畏れ多い感じ、有難いなていう感じ、尊いなあていう思いは

やがて「相応しく生きよう」という具体的な行動を生み出します

 

足尾銅山鉱毒事件で天皇に直訴衣逮捕されたあと

田中正造翁は国会議員を辞め

事件を隠蔽するため国策によって水没させられた谷中村に入り

村民と共に水上生活をしました

 

それは企業と結託した政治家と官僚に勝つことを目的とした「運動」ではありません

農民の生命ともいえる田畑を奪われた村民と

最後まで一緒にいる

つながり続けるために田中正造翁は谷中村に留まったのでした。

 

胃癌で亡くなったとき正造翁の持ち物は信玄袋だけで

その中には新約聖書マタイ伝分冊と石ころが数個入っていただけだったといいます

 

誰かとつながり続けるためであれば

負け続けてその果てに死ぬことを辞さない

そのことを選んだ正造翁

 

神さまのアイコンとして作られたことに相応しく生きたいと願う人は

正造翁のように

きっとイエスをアイコンとして

イエスのように生きて

イエスのように死んでいく道を選ぶのでしょう

 

でも人は

正造翁のように

またたくさんの殉教者のように

強くはない

彼らのようにみすぼらしくも雄々しく生きるのは難しい

堂々と野垂れ死にするのは難しい

 

もしそう出来なければイエスに従ったとはいえないのだとしたら

私たちはアイコンとして相応しく生きることや

イエスをアイコンとして生きることなど出来ないとも

思えるのです

 

 

■キリストは私に似た姿で待っておられる

 

しかし

そんな弱い私たちにパウロは

私たちは天国で「キリストの似姿」になるというのです

私たちがキリストのアイコンなのだとしたら

私たちはキリストに似ているし

さらにいうと

あろうことか

キリストは私たちに似ているのです

 

私たちは地上での生活に夢破れ

絶望してこの世の生を終えるかもしれません

努力しても結局

誰ともつながることが出来ず

孤独のうちに息を引き取るかもしれません

 

しかしたとえ

そんな時でも

天国に行けばキリストが待っておられる

それも私に似た姿で待っておられるのです

 

天国にいってたくさんの霊がウロウロしているなかで

会ったこともないキリストを探し出すのは難しいと思うでしょ?

でもどうもそんなことはないようです

だって自分に似た人を探せばいいのですから!