使徒言行録2:1~4

 

 

旧約聖書の言葉で「喉」と「息」と「風」と「霊」は同じ言葉だ。


人は土で作られ土に帰るしかない虚ろなものに過ぎない。だからこそそこに神さまの「息」が吹き込まれて初めて人は生きる。

人は死んで「息」を吐ききる。
その「息」は風となって神さまの中に帰る。

古来よりヘブライの民は風が吹く度に風の中に立つ度に、「誰かが死んだのだ」「どこかで新しい命が宿ったのだ」と思っていたのだろう。

今朝、11年間介護をしてきた義母が息を引き取った。
旧約聖書の考え方からすると「息を引き取った」のは義母ではなく、彼女に「霊である息」を吹き込んだ神さまなのだ。
正しくは「義母の息を神さまが引き取れました」と書くべきだろう。

これとは別に一昨日ホームからの連絡を受けて駆け付けた時、義母はすでに顎呼吸をしていた。
舌が喉の奥に落ちていき放置すると窒息してしまうので舌の位置を確保するマウスピースをくわえていた。
呻きながら大きく上下する顎と喉を見て私は、「神さまはあなたの喉を守られる」という聖書の言葉を思い出した。
そうか喉が生き続ける(息続ける)象徴だとしたら神さまは私たちの「生きる」(息る)を決して見捨てられないのだ、ということに気付いた。

義母は自我の塊のような人だった。
最期の二日間も「息」は自分のものだ!と主張しているようだった。
そのために「喉」を激しく動かし呻き続けていた。

しかし義母の苦闘を最期の最期に解放したのは、義母が辛い思いをさせ続けた一人娘(私の妻)だった。

妻が、浮腫んだ義母の手足をアロマオイルでマッサージすると見る間に義母は呻くのを止め呼吸は落ち着き、穏やかな表情になった。

人は神さまの「霊」で「喉」を守られ、神さまの「息」と「風」で生きるのたろう。
しかし、そのことを我に囚われ苦悶する人に伝えることが出来るのは、人の持つ優しさであり、赦す力なのだ。

義母は遂に赦しを乞うことなく逝ったが、ずっと赦されたいと願っていたのだ。

その寝顔には赦された者だけが持つ安寧が湛えられている。