マタイ16:21~28
「自分を捨てること」と「自分の十字架を背負うこと」と、どっちが難しいかなー。
私にはどっちも無理やなー!と思いながら、何度もここを読み返してて、ふと、十字架を背負うことは意外と簡単なのかも?!と思ってしもたんで、その話を今日は書きます。
イエスは「全人類の罪」の身代わりになって死んだといわれている。
てことはイエスが担いでいた十字架とは「全人類の罪」のこと。
それなら背負えといわれている「自分の十字架」とは「自分の罪」のこと。
自分にこだわり、神さまの顔を避け、神さまに背を向けて、的外れに生きる。
それが自分の罪なのだとしたら、私は生まれてこの方ずっと「自分の十字架」を背負ってきたんとちゃうやろか、と思ったのです。
私は自分を捨てることなど出来ない。
これまで同様これから先もずっと、自分にこだわり、周りに自分を押し付け、思うようにいかないと他人のせいにし、自分は悪くないと強弁するんやろな。
でもそんな自分やからこそ、はなっから「自分の十字架」を背負えてる!
自分を捨てられない私やからこそ、自分の十字架を背負ってイエスの後を追うことが可能になるんや!
こんな風に思った途端、とても気持ちが軽くなりました。
自分を捨てられなくてもいい、神さまに背いたままでもいい。
だからこそ自分のためにイエスは身代わりになってくれた。
だからこそ、いま私も自分の十字架を背負ってイエスの後に従っていける。
あ、それとね。
自分の十字架の全重量を自分一人で背負うのは無理やと思うねん。
そんな重いもん、一人では無理。
なのに、何で生まれてからずっとそれを背負ってこれたのかというと、
最初からイエスが肩を貸してくれてたんやと思うんよね。
自分の十字架は自分一人で背負ってたんと違うねん。
ずっと二人で背負っててん。
イエスと二人で。
ていうか、ほとんどイエス一人で背負ってた。
私はちょっとだけやったんとちゃうやろか。
お前の十字架、めっちゃ軽くしといてやったから、背負ってもあんまりしんどくないやろ?
ていうイエスの声が聞こえてきそうや!