マタイ16:13~20


ペテロの信仰告白のこのシーンは、マタイだけでなくマルコにもルカにも登場するんですが、共通するのは前半部分だけで、後半の17~20節はマタイだけの記述なのです。

つまりここに、自分が属するコミュニティの抱える問題に対するマタイなりの回答が凝縮されている訳です。

マタイのコミュニティは生前のイエスと一番濃いつながりがあったと考えられています。
しかし、イエスの死後半世紀経ったその教会では、イエスが一番嫌った「誰が一番偉いのか?」ということで争いが絶えなかった。
イエスの血族が偉いのか、イエスのすぐ傍にいた弟子たちのそのまた弟子たちが偉いのか、という争いです。

そのような争いを繰り返す人々に対してマタイが書いたのは「イエスが後継者として認めたのはペテロだ」ということでした。

天国の鍵がぺテロに授けられたのだとしたら、やはり教会の中で一番偉いのは、イエスの血族ではなくイエスの弟子筋ということか?!と思ってしまうのですが、果たしてそうでしょうか。

福音書でペテロは卑賤・無知・無学の代表として描かれています。
そればかりか、漁師の職を捨ててイエスの舎弟になったにも関わらず、イエスを疑ったために嵐の湖で溺死しそうになり、イエスが捕縛されたときには三度もイエスを「知らない」といい、イエスが刑死した途端そこから郷里に向かって逃亡した臆病者・卑怯者の代表でもあるのです。

だからこそ、そのような人物に天国の鍵が託された、ということに私たちの救いがあります。

ペテロの姿はまさに私たち自身の姿だからです。
ペテロに天国の鍵が託されたのだとしたら、天国の鍵は私たち一人一人にも託されたのです。

天国の鍵は私たち一人一人の手の中に既に握られている。
それは、私たちはどんなに無意味で価値のないものに見えても天国に行ける、ということです。
価値のない命など一つもない、価値のない人生など一つもない、あなたが生まれてきてくれてうれしい、あなたが生きていてくれて有難うということです。

 
天国の鍵を握りしめた拳を胸に当ててみてください。
きっと違った景色が見えて来るはずです。