マタイ14:22~33

 

 

【三度戸惑いためらうイエス】


今日の箇所は、イエスが『水の上を歩く話』なのだが、私はこの奇跡物語の前にくっつけられている『イエスが祈るために一人になる』話に心惹かれる。

前回前々回で読んだように、ここでもまたしても(これで三度目!)イエスは戸惑いためらっているからだ。
神から与えられた使命を全うする「その時」が来てもなお、行動しては立ち止まり、一人になって神に愚痴をこぼす。
出来ればこんなことはしたくない、一人で湖畔をふらふらさまよっているのが性に合っている。
誰かを助けるとか救うとか腹一杯にするとか重すぎてしんどいです。
この使命を私から取り除けて下さい、と祈るのだ。



【あなたは戸惑いためらっていい】


その臆病さ、不甲斐なさ…。
どれも12人の弟子たちと、そして私の姿と、見事に重なる。

五千人の給食の話の最後に、食べ残しは12のカゴ(=12の弟子の比喩)に一杯になったとある。神様がその人を使わそうとした時、必要なものを神は既に備えられているのだ。裏切り者のユダを含む12人の弟子たちは、イエスが捕縛されたとき一目散に逃げた。そんな連中にさえ神は必要なものを用意され彼らの使命を全うさせられた。
つまり、臆病で、不甲斐ない私は、そのままで神さまのご用を果たすことが出来るということだ。

イエスでさえ戸惑いためらった。
あなたはいくらでも戸惑いためらってもいい。
それでもなおあなたの道は備えられているのだ。
というgood news が聞こえてくる。



【ハラヲククル】


そして『水の上を歩く話』でも、このことは繰り返される。

風と波とで沖に出られず岸にも寄せられず日暮れから明け方まで一晩中船の中で恐怖に怯えていた弟子たちの姿は、私たちの日常そのものだ。
そして、そんな私たちをイエスは、岸から船まで真っ直ぐ助けに来てくれる。
しかも風を恐れず波に怯えず、ひたすらイエスの元に行こうとするなら、「命の危機に瀕しているその人を真っ直ぐに救助する」という能力さえイエスから分け与えてもらえるのだ。

イエスに憧れ、その権能を付与されたいと願ったぺテロは一旦水の上を歩くが、恐怖して沈んでしまう。

臆病で不甲斐ないぺテロ。

しかしそのぺテロをまたもイエスは助け上げ、さらに船にいた他の弟子たちも救出してしまう。

一旦使命を果たそうとしてもまた沈んでしまうような、臆病で不甲斐ない私でも、イエスは何度でも手を伸ばし救い出し、神が備えられた道の上に立たせて下さる。

腹を括ったつもりでも何度も夢破れて逃げ出す私。
その私をそのままで用いようとされる神さま。

目の前でイエスが呼んでいる。
恐れるな、恐れずにこっちに来いと。
その呼び掛けに今度こそ迷わず一歩を踏み出せるようにハラヲククル者でありたい。