マタイ13:34~35
【自分のモノサシ】
私たちは自分のモノサシで他人を測って暮らしている。
自分の感覚や、価値観が正しいと思い込んいる。
自分のモノサシは親・兄弟姉妹・地域・保育や教育の現場・国といった自分が育った環境の中で形成されていくけれど、それで世界の全てを測れる訳ではない。
しかし、そのことに気付いている人は世の中にどれくらいいるのだろうか。
【折られたモノサシ】
昨年3月から大阪市阿倍野区昭和町で放課後等デイサービスという発達支援事業を始めた。
この4月からは奈良県生駒郡三郷町で多機能型発達支援事業所がスタートした。
来春にはもう一つ障害福祉サービスの事業所を始めなければならない。
その先もその先も、支援を必要としている人たちの「居場所」を作り続けることになる。
このような中で、私が振り回していたモノサシは、しょっちゅうへし折られる。
子どもたちはなかなか目と目を合わせてくれないし、自分の興味のあることには熱中するけれど外界にいるこちらとのコミュニケーションにはほとんど興味を示しててくれない(ように見える)。
けれど、見ていないのかと思ったら見ているし、聴いていないようで案外しっかり聞こえているし、こちらへの意思表示なんか興味ないんやろなて思ってたら突然にゃんこのように懐いてくれる。
自分が今まで押し当ててきたモノサシがまったく通用しない。
以前も書いたが、私は我が子以外の「子ども」を可愛いと思うことがあまりない。
ただ「この子には今なにが必要なのだろう」とか「この子はどんな手助けを必要としてるんだろうか」ということには無茶苦茶興味がある。
目の前にいる「何かで困っている」子ども。
その子が「今、必要としてる何か」に気付き、タイムリーにそれを提供するのが楽しくて仕方がない。
しかし、発達支援の現場にやってくる子どもたちについては、いつも私は困惑している。
なぜなら彼ら彼女らが「何で困っているのか」、「どんな助けを必要としているのか」がとても判り難いからだ。
この子たちが五感で受け止めている世界は刻々と変化している。
視野は突然狭くなったり、広がったりする。
フルカラーで見えているかと思ったら、モノクロになったり、昆虫が見ているような点描の世界になったりする。
聞こえている音は、大きくなったり小さくなったり、歪んだり、雑音の中にかき消されそうになったりする。
掌で触れた時、さっきまで氷のように冷たかったものが、突然猛烈に熱く感じたりする。
柔らかい布が棘棘した硬いもののように感じたりもする。
嗅ぐもの味わうものも同じで、さっきまでいい香りで美味しいと感じたものが、不快な悪臭を放ち不味くて口の中に入れてられないと感じたりする。
辛い時に笑い続けたり、困っている時に怒り続けたりする。
この子たちに健常者のモノサシは使えない。
この子たちと一緒に生きていくためには、今まで使っていたモノサシを捨てて、彼ら彼女らから新しいモノサシを授けてもらわなければならない。
【宇宙の初めからの言葉がこの子たちに託されている】
イエスは「譬え」以外では何も語らなかった、と聖書に書いてある。
そしてその「譬え」は「宇宙の初めから隠されていた真実を私たちに明らかにする」ための道具だ、という。
先に書いた発達障碍の子どもたちの感覚の世界は、一人の保護者の方から教えていただいたのだが、これはまさに私にとって「宇宙の初めから隠されていた真実」だ。
独りぼっちの人、困っている人に寄り添い、苦しみの中にある人に手を差し伸べて触れよ、というイエスの言葉の内実はこれなのだ。
私はずっとこの子たちのことを知っていると思っていたけれど、実は何も知らなかった。
分かっていると高をくくっていたけれど、分かっていなかった。
共感しているつもりだっただけで、同じものを感じることなど出来ていなかった。
ほんとに、なんて恥ずかしいんだろう!!
「宇宙の初めから隠されていた真実」がこの子たちの中にある。
この子たち自身がそれを私たちに示してくれる「譬え」なのだ。
私たちが進む方向が的外れにならないように、子どもたちの「譬え」に真剣に耳を傾けたい。
【自分のモノサシ】
私たちは自分のモノサシで他人を測って暮らしている。
自分の感覚や、価値観が正しいと思い込んいる。
自分のモノサシは親・兄弟姉妹・地域・保育や教育の現場・国といった自分が育った環境の中で形成されていくけれど、それで世界の全てを測れる訳ではない。
しかし、そのことに気付いている人は世の中にどれくらいいるのだろうか。
【折られたモノサシ】
昨年3月から大阪市阿倍野区昭和町で放課後等デイサービスという発達支援事業を始めた。
この4月からは奈良県生駒郡三郷町で多機能型発達支援事業所がスタートした。
来春にはもう一つ障害福祉サービスの事業所を始めなければならない。
その先もその先も、支援を必要としている人たちの「居場所」を作り続けることになる。
このような中で、私が振り回していたモノサシは、しょっちゅうへし折られる。
子どもたちはなかなか目と目を合わせてくれないし、自分の興味のあることには熱中するけれど外界にいるこちらとのコミュニケーションにはほとんど興味を示しててくれない(ように見える)。
けれど、見ていないのかと思ったら見ているし、聴いていないようで案外しっかり聞こえているし、こちらへの意思表示なんか興味ないんやろなて思ってたら突然にゃんこのように懐いてくれる。
自分が今まで押し当ててきたモノサシがまったく通用しない。
以前も書いたが、私は我が子以外の「子ども」を可愛いと思うことがあまりない。
ただ「この子には今なにが必要なのだろう」とか「この子はどんな手助けを必要としてるんだろうか」ということには無茶苦茶興味がある。
目の前にいる「何かで困っている」子ども。
その子が「今、必要としてる何か」に気付き、タイムリーにそれを提供するのが楽しくて仕方がない。
しかし、発達支援の現場にやってくる子どもたちについては、いつも私は困惑している。
なぜなら彼ら彼女らが「何で困っているのか」、「どんな助けを必要としているのか」がとても判り難いからだ。
この子たちが五感で受け止めている世界は刻々と変化している。
視野は突然狭くなったり、広がったりする。
フルカラーで見えているかと思ったら、モノクロになったり、昆虫が見ているような点描の世界になったりする。
聞こえている音は、大きくなったり小さくなったり、歪んだり、雑音の中にかき消されそうになったりする。
掌で触れた時、さっきまで氷のように冷たかったものが、突然猛烈に熱く感じたりする。
柔らかい布が棘棘した硬いもののように感じたりもする。
嗅ぐもの味わうものも同じで、さっきまでいい香りで美味しいと感じたものが、不快な悪臭を放ち不味くて口の中に入れてられないと感じたりする。
辛い時に笑い続けたり、困っている時に怒り続けたりする。
この子たちに健常者のモノサシは使えない。
この子たちと一緒に生きていくためには、今まで使っていたモノサシを捨てて、彼ら彼女らから新しいモノサシを授けてもらわなければならない。
【宇宙の初めからの言葉がこの子たちに託されている】
イエスは「譬え」以外では何も語らなかった、と聖書に書いてある。
そしてその「譬え」は「宇宙の初めから隠されていた真実を私たちに明らかにする」ための道具だ、という。
先に書いた発達障碍の子どもたちの感覚の世界は、一人の保護者の方から教えていただいたのだが、これはまさに私にとって「宇宙の初めから隠されていた真実」だ。
独りぼっちの人、困っている人に寄り添い、苦しみの中にある人に手を差し伸べて触れよ、というイエスの言葉の内実はこれなのだ。
私はずっとこの子たちのことを知っていると思っていたけれど、実は何も知らなかった。
分かっていると高をくくっていたけれど、分かっていなかった。
共感しているつもりだっただけで、同じものを感じることなど出来ていなかった。
ほんとに、なんて恥ずかしいんだろう!!
「宇宙の初めから隠されていた真実」がこの子たちの中にある。
この子たち自身がそれを私たちに示してくれる「譬え」なのだ。
私たちが進む方向が的外れにならないように、子どもたちの「譬え」に真剣に耳を傾けたい。