マタイによる福音書13:18~23



【理不尽な現実】



ここに書かれている農夫(神)は雑だ。

一粒一粒の種を丁寧に植えてはくれない。

雑な農夫が撒いた種は色んな場所に落ちる。

畑ではない道端に落ちた種は、すぐに鳥に食べられてしまう。

石だらけの場所に落ちた種は、根が伸びずに太陽に焼かれて枯れてしまう。

イバラの間に落ちた種は、イバラに遮られてヒョロヒョロとは伸びるが実ることがない。


ここを読んで、改めて、神様のすることは理不尽だと思う。

子どもたちは生まれる場所を選べない。

平和な国で生まれる子がいれば、戦火の只中に生きる子がいる。

子どもたちは生まれる身体を選べない。

壮健な身体で生まれる子がいれば、生まれる前から重い障碍を背負っている子がいる。


なぜすべての子どもたちを、平和で穏やかな、食べることに困らない場所に生まれさせてくれないのか?!

なぜすべての子どもたちを、壮健な身体で生まれさせてくれないのか?!

天を仰いで神を呪い、神を訴えたくなるような現実が目の前に広がっている。


にもかかわらず聖書には

「良い土地に落ちた種は、百倍、六十倍、三十倍にも実った」と書かれている。

種は自分から落ちる場所を選べないにもかかわらず

いや、神様が雑な種撒きをしたせいで、種は厳しい環境に落ちたに過ぎないのに

鳥に食べられたり、根が張らず枯れたり、イバラに遮られて実らないのは種のせいだ、といわんばかりだ。



【不自由な身体を選んで生まれてきた】


私が森の仲間と一緒に始めた障害福祉サービスがちょうど丸1年を迎えた。

そこでは、様々な新しい出会いと驚きと感動を日々いただいているのだが、先日、こんなお話をきいて猛烈に心を揺さぶられた。

発達障害を持つお子さんがお母さんに「私は生まれる前に雲の上からどのお母さんのところに生まれるか、お母さんを探していた。そしてママを選んでママの所に生まれてきたんだよ。」と伝えてくれたのだそうだ。

そして、「健常な身体と障碍のある身体とどちらでも選べたけれど、私はこの障碍のある身体を選んで生まれてきたんだよ」と筆談で話してくれたという。

私たちは、他人の幸せを羨み、神を呪いたくなるような理不尽な現実を生きている。

しかし、このお子さんは「なぜこんな環境に生まれたのか?なぜこんな身体でうまれたのか?」とは問わない。

「すべて私が選んだ」というのだ。



【いま、ここで、一緒に生きる】


マタイが書く「種まく人の譬」は「良い土地に落ちた種」に向かって語られている。

環境に恵まれた教会で信仰生活を送る人々に「こんないい条件のところにいるのに、実らないのはどういう訳だ?!」と問い質しているのだ。

この理不尽な世の中で、こんなに恵まれているのに

鳥に食われることもなく、根が張れないわけでもなく、イバラに閉ざされているわけでもないのに、

なぜ、百倍、六十倍、三十倍と実ることができないのか?!と詰め寄っているのだ。

それはまさに、誰かのお世話が出来る環境にいるのに、助けの手を差し伸べない「私」に向かって投げかけられている問いだ。


一人の子どもがいる。

その子は敢えて不自由な身体や環境を選んで生まれ、そしていま私と出会ってくれた。

それならば、私が出来ることは決まっている。

この子と、いま、ここで、一緒に生きる、それしかない。

様々な不自由を抱えるその子が他の誰でもなく私を選んでくれたのだから。

この子と一緒に、百倍、六十倍、三十倍、実ってみたいと願うのだ。