マタイ13:1~9



【神様は雑な農夫】


農夫が畑に種を蒔く。

ある種は道端に落ちる。

ある種は石だらけで土の少ない所に落ちる。

ある種はイバラの中に落ちる。

他の種はよく肥えよく耕された畑の中に落ちる。


日本のお百姓さんは一粒一粒丁寧に種を蒔くが、ここに登場する農夫はかなり雑だ。

アメリカの大農場では飛行機から種をばら撒くらしいが、この農夫はそれに近い。


小学生の頃、自宅を開放して土曜学校をやってた父からこの聖書の箇所を教わった時、私は「神様って、何て雑で、無責任なのだ!」と思った。

だってそうでしょ?

人間のことをほんとに大切だと思ってるんだったら、一粒一粒丁寧に蒔いてくれたらええやん?!
一粒一粒がしっかり根を張り、ぐんぐん成長し、豊かに実るように、よく肥えよく耕された畑の中に丁寧に蒔いてくれたらええやん?!

それを不用意に、道端だの、石だらけで土の少ない所だの、イバラの中だのに撒いてしまうから
そのせいで
道端に落ちた種はすぐに鳥に食べられ、石だらけの場所に落ちた種はすぐに芽をだすけれど根っこが育たずにすぐ枯れてしまい、イバラの中に落ちた種はイバラに成長を妨げられて枯れてしまうのだ。


そしてその反対に、いい場所に落ちた種は豊かに実り、100倍、60倍、30倍になったという。

そりゃあそうだろう。
日本の水田に植えられる稲は、一粒の種籾が一本の苗になるのだが、それが収穫の時には1000倍になっている。
丁寧に植えられ大切に育てられたら、100倍どころか1000倍にだってなれる、てことだ。

いい加減なばら撒き方をしておいて、まるで自分から好んで道端や石だらけで土の少ない所やイバラの中に落ちていったような書き方に腹が立ってくる。



【せっかく良い場所に落ちたのなら】


一方、マタイによる福音書が、イエスの兄弟が中心となって建てられたエルサレムのコミュニティの中で書かれ編集されたことを考えると、この箇所の力点は「良い場所に落ちた種がどうあるべきか」にあるのだろう。

イエスの同胞であり、イエスに最も近い群れに向かって「せっかく良い場所に蒔かれたのだ、しっかり実って100倍、60倍、30倍にも実ってみせなさい」と語りかけているのだ。


今日から21年前の1995年1月17日の未明に阪神淡路大震災が起きた。

たくさんの命が失われ、その一方で私たちは生き残り、今に至っている。

当時のユダヤでも、生死の明暗は繰り返されていただろう。

私はかつて通ったハンセン病療養所で、親しくなった入園者の方から「この病気に罹ったのがなぜあなたではなく私だったのか」という質問をされて答えに窮したことがあるが、まさに誰が死に誰が生きるのかその理由は誰にも分からない。

ただ、良い人の上にも悪い人の上にも、等しく雨は降り、朝日は昇る。

同様に、21年前の震災では良い人も亡くなり、悪い人も亡くなった。
良い人も生き残り、悪い人も生き残った。


では、なぜか生き残り、今も生かされている私は、先に逝った人の分まで生きているだろうか。

先に逝った人の分まで、100倍、60倍、30倍に実っているだろうか。



【ずっと見守っている】


そう自問してみると、そのたびに私は情けなくなる。

先に逝った人の分までどころか、私は自分一人の人生さえ満足に生き抜けてはいないからだ。

撒いたのは神様かも知れないが、私は鳥に食われ、芽は出すが根を張れなくてすぐに枯れてしまい、イバラの中で根を張ったために光を遮られ実ることがない。

そして、こんな所に撒きやがって!もっといい場所に植えてくれたらいい結果を出せたのに!と天を仰ぎ天を恨む。

しかし、私はこの箇所で「イエスの眼差し」を感じるのだ。

そういうロクでもない私をじっと見つめ見守るイエスの眼差しを。


私は悪い人だ。

その私の上に雨は降り、その私にも朝日は昇る。

同様に、そんな私を、イエスはずっと見てくれている。

鳥に食われる瞬間も、太陽に焼かれて枯死するその時も、イバラの中で実をつけることなくひょろひょろと立ち尽くしている時も、イエスの視線は私を捉えている。


明日もきっとロクでもない一日だろう。

それでもまた、私は前に進めそうな気がする。

イエスがずっと見守っていてくれるからだ。