マタイ12:46~50
【援助職の苦悩】
福祉・医療・看護・教育の仕事に従事している人は、大変なストレスを抱えている。
それも「家族とうまく付き合えない」というストレスだ。
自分や自分の家族のことよりも、目の前にいる「その人」「その子」の窮境に寄り添い、差し障りや苦しみや不安を取り除くことが優先されるからだ。
子どもの運動会に行ってやれない。
参観に行ったことがないので担任の名前はもちろん、クラスも知らない。
誕生日も一緒に祝えない。
お正月もクライアントに一朝あれば飛んでいかなければならない。
深夜でも車を走らせないといけないから、疲れて帰っても酒も飲めない。
親が危篤でも現場を離れられない。
妻の出産に立ち会うことも出来ない。
補導された非行少年の身元引き受け人になったために万引きをして補導された我が子を迎えに行ってやれない。
離婚の協議中に連絡が入り現場に急行した人や、自分の結婚式に遅刻した人もいる。
長い間妻の顔を見ていなかったために、妻の重病に気付かず手遅れになった人もいる。
その人は「お母さんを殺したのはお父さんだ」と子どもたちに責められ続けている。
家族以外の「その人」「その子」には優しく温かく、忍耐強く、寄り添い支え励まし導く人が
実は「家族とうまく付き合えない」という苦悩を抱えている。
有能な援助職に限って家庭が崩壊している例は珍しくないのだ。
【イエスも家族を真っ直ぐ見れなかった】
福音書には、イエスの家族に関する記述が少ない。
誕生物語ではマリアとヨセフにスポットライトが当たるが、それ以外でヨセフへの言及はない。
マリアにしてもこの箇所と十字架上で息絶える息子を見守り、弔おうとする場面に登場するくらいのものだ。
さらに今日の箇所では、イエスがマリアや弟妹を遠ざけていたように描かれている。
長男のことが心配でやってきた母親や弟妹たちを邪険に扱うイエスの態度を見かねて
「お母さんや弟さん妹さんのことを、少しは真っ直ぐ見てあげたらどうですか?」という人がいるくらいに。
そうなのだ、イエスもまた「その人」や「その子」に対して「真っ直ぐ見る」「手を差し伸べ、触る」ことは出来たけれど、家族にはそれが出来なかった人なのだ。
【不完全でいいんだよ】
私はここを読んでホッとする。
息子が原因不明の高熱が続き入院した時、親の介護が始まった時、妻が病気で倒れた時、私は家族の傍にいようとした。
しかし、そんな時でも「死にたい!」「助けて!」という電話やメールが携帯に入る。
つい対応していると、ベッドの上から悲しそうに私を見つめる家族がいる。
「その人」「その子」の助けになりたくて対人援助を学び実践してきたのに、目の前で苦しむ我が子や親や妻については「真っ直ぐ見る」ことも「手を差し伸べて、触る」ことも出来ない自分。
いやむしろ仕事が思うように出来ないことに苛立ち、圧倒的に寄りかかってくる家族を疎ましくさえ思っている自分に気付かされる。
そして、苦しむ家族に優しく出来ない人間が、本当に誰かの助けなんか出来るのか?!と自分を責めるのだ。
だから、今日の箇所を読んで、私はホッとし、救われた気持ちになる。
イエスもきっと、同じ苦しみを背負っていたからだ。
「ほんまに、何で、親父やお袋には、いつも不機嫌な喋り方になるんかな…」
「何で、我が子にはいつも怒ったみたいにしか話されへんのかな…」
「何で、妻とは(夫とは)目と目を合わして話がでけへんのかな…」
そんな悩みをイエスもまた、抱えていたと思えるからだ。
49節と50節の言葉は、「家族とうまく付き合えない」私たちへの慰めの言葉だ。
血縁者とは繋がれなくても自分を責めるな、
不完全なままでいい、
一番繋がりたい人とうまく繋がれない、そんな痛みを抱えるあなただからこそ、繋がりから排除された人を繋がりに帰し、繋がりを広げ、新たな繋がりを生み出すことができるのだ、
私は、そんなあなたの傍にいる。
【援助職の苦悩】
福祉・医療・看護・教育の仕事に従事している人は、大変なストレスを抱えている。
それも「家族とうまく付き合えない」というストレスだ。
自分や自分の家族のことよりも、目の前にいる「その人」「その子」の窮境に寄り添い、差し障りや苦しみや不安を取り除くことが優先されるからだ。
子どもの運動会に行ってやれない。
参観に行ったことがないので担任の名前はもちろん、クラスも知らない。
誕生日も一緒に祝えない。
お正月もクライアントに一朝あれば飛んでいかなければならない。
深夜でも車を走らせないといけないから、疲れて帰っても酒も飲めない。
親が危篤でも現場を離れられない。
妻の出産に立ち会うことも出来ない。
補導された非行少年の身元引き受け人になったために万引きをして補導された我が子を迎えに行ってやれない。
離婚の協議中に連絡が入り現場に急行した人や、自分の結婚式に遅刻した人もいる。
長い間妻の顔を見ていなかったために、妻の重病に気付かず手遅れになった人もいる。
その人は「お母さんを殺したのはお父さんだ」と子どもたちに責められ続けている。
家族以外の「その人」「その子」には優しく温かく、忍耐強く、寄り添い支え励まし導く人が
実は「家族とうまく付き合えない」という苦悩を抱えている。
有能な援助職に限って家庭が崩壊している例は珍しくないのだ。
【イエスも家族を真っ直ぐ見れなかった】
福音書には、イエスの家族に関する記述が少ない。
誕生物語ではマリアとヨセフにスポットライトが当たるが、それ以外でヨセフへの言及はない。
マリアにしてもこの箇所と十字架上で息絶える息子を見守り、弔おうとする場面に登場するくらいのものだ。
さらに今日の箇所では、イエスがマリアや弟妹を遠ざけていたように描かれている。
長男のことが心配でやってきた母親や弟妹たちを邪険に扱うイエスの態度を見かねて
「お母さんや弟さん妹さんのことを、少しは真っ直ぐ見てあげたらどうですか?」という人がいるくらいに。
そうなのだ、イエスもまた「その人」や「その子」に対して「真っ直ぐ見る」「手を差し伸べ、触る」ことは出来たけれど、家族にはそれが出来なかった人なのだ。
【不完全でいいんだよ】
私はここを読んでホッとする。
息子が原因不明の高熱が続き入院した時、親の介護が始まった時、妻が病気で倒れた時、私は家族の傍にいようとした。
しかし、そんな時でも「死にたい!」「助けて!」という電話やメールが携帯に入る。
つい対応していると、ベッドの上から悲しそうに私を見つめる家族がいる。
「その人」「その子」の助けになりたくて対人援助を学び実践してきたのに、目の前で苦しむ我が子や親や妻については「真っ直ぐ見る」ことも「手を差し伸べて、触る」ことも出来ない自分。
いやむしろ仕事が思うように出来ないことに苛立ち、圧倒的に寄りかかってくる家族を疎ましくさえ思っている自分に気付かされる。
そして、苦しむ家族に優しく出来ない人間が、本当に誰かの助けなんか出来るのか?!と自分を責めるのだ。
だから、今日の箇所を読んで、私はホッとし、救われた気持ちになる。
イエスもきっと、同じ苦しみを背負っていたからだ。
「ほんまに、何で、親父やお袋には、いつも不機嫌な喋り方になるんかな…」
「何で、我が子にはいつも怒ったみたいにしか話されへんのかな…」
「何で、妻とは(夫とは)目と目を合わして話がでけへんのかな…」
そんな悩みをイエスもまた、抱えていたと思えるからだ。
49節と50節の言葉は、「家族とうまく付き合えない」私たちへの慰めの言葉だ。
血縁者とは繋がれなくても自分を責めるな、
不完全なままでいい、
一番繋がりたい人とうまく繋がれない、そんな痛みを抱えるあなただからこそ、繋がりから排除された人を繋がりに帰し、繋がりを広げ、新たな繋がりを生み出すことができるのだ、
私は、そんなあなたの傍にいる。