【待降節第一主日礼拝説教】
マタイ12:43~45
【寂しい悪霊たち】
日本には「鬼」という概念がありますが、イエスの時代のイスラエルでも、病気や怪我、障害、不慮の事故は目に見えない「悪の力」が引き起こすと考えられていました。
その総称が「汚れた霊」や「悪霊」です。
今日の箇所では、その「汚れた霊」はイエスによって宿主から追い出されると「砂漠をさまよい歩き休む場所を探す」のだと書かれています。
日本の鬼たちも寂しく路上を彷徨っているのですが、イスラエルの悪霊たちは砂漠を彷徨っているのです。
友人で行者をやっている人がいます。彼によると、修行中しょっちゅう視線を感じるのだそうです。何の視線かというと、人間でも、獣でもない、樹々でもない、何かとても邪悪なものの視線だそうです。
そして、その視線に気づいても決して目を合わせてはいけないそうです。近付いて行って正体を確かめようなどはもっての他。もし近づいたり目を合わせたら、その瞬間に憑りつかれ食い殺されてしまうのだそうです。
そういう「邪悪なもの」は深い森や、山奥のお滝場や、無人となった廃村には「必ずいる」といいます。
でも、見方を変えれば、行者の友人がいう「邪悪なもの」も「鬼」も、聖書に出てくる「汚れた霊」も、みな、独りぼっちなんですね。
一人寂しく、彷徨い歩いてる。
ホッと休める、暖かい場所を探して彷徨っている。
【空き家にしてたらダメだよ】
今日の箇所でイエスがいってるのは「だから、汚れた霊を追い出してもらったからといって空き家にしてると、また汚れた霊が戻ってきて棲みつかれてしまうよ」ということです。
それも、寂しいお仲間をたくさん引き連れて、棲みついてしまう。
そしてその人の状態は以前より悪くなるよ、と。
じゃあ、そんなことにならないために、「汚れた霊」を追い払ってもらった後の我が家には誰に住んでもらえばいいのかというと、邪悪な連中が恐れ戦いて近づけないほど眩しく光輝いている存在、簡単にいってしまうと「神さま」に住んでもらわないといけない。
【鬼は外、福は内?】
この箇所を読み、真っ先に思い浮かべるのは節分恒例の豆まきです。あの「鬼は外!福は内!」てやつです。
鬼は家の外にいっぱいいて、隙を見つけては家の中に侵入してくる。
それを撃退し、福だけを招き入れ、一年間の無病息災を祈願するあれですね。
イエスがいってるのとほんとによく似てます。
共通しているのは、邪悪なものが住めないように、福を招き入れるのは、その家の主人の選択と決断と努力によるのだ、というところ。
自分という器=家に、いったい誰に住んでいてほしいのか、私たちはその決断を迫られているのです。
しかし、当時ローマ帝国に支配され、街の至る所に進駐してきた兵がうろつき、それに怯えて暮らさなければならなかったイスラエルの人たちの状況を考えると、鬼は外に福だけ内に、などという二者択一はとても難しかっただろうと思うのです。
イエスの弟子の一人だった取税人マタイは、支配者側の傀儡に身を落とし、同胞から暴力的に通行税を巻き上げ贅沢な暮らしをしていた男です。
イエスの仲間であり、支援者であった女性たちの中には、進駐軍相手に売春をすることで一家を養い、生き延びていた人たちが少なからずいたはずです。
最初の弟子たちが漁師だった、というエピソードもまた、イエスに近い人たちが「聖」よりも「俗」の側に生きていた人たちだったことを示しています。
そもそもイエスの出自自体が「聖」とはいえない。
14歳くらいだったマリアが、ヨセフと婚約中に進駐して来ていたローマ兵に強姦され身ごもり、生まれたのがイエスだと、私は考えています。
イエスは馬小屋で生まれ餌を入れる桶の中に寝かされたといわれていますが、望まない妊娠出産ではあったけれど、不義の子を身ごもり生まなければならなかったマリアとその連れ合いヨセフに、郷里の親族が誰も部屋を貸さなかったのは当然のことだったろうと思うのです。
聖なるものに憧れ、清くなりたいと願い、祈り、捧げものをし、戒めを守って生きていても、現実はそこからどんどん遠ざかっていく。
正しくありたい自分が、どんどん邪悪なものになっていく。
そんな毎日の中で、私たちもまた「鬼は外!福は内!」などと軽はずみには口に出来ないのです。
なぜなら、もし鬼の部分を完全に排除しなければならないのだったら、自分自身がこの世から消滅しなければならないからです。
今日から待降節です。教会暦では今日がお正月。晴れ晴れとした気持ちでクリスマスを迎える準備を始める日です。
私たちは、自分が「鬼」であるにも関わらず、「光り輝く神」を我が家にお迎えする準備をするのです。
俗に生き、悪に染まる私たちの中に、聖であり正しい方が宿ってくださる。そのことを喜ぶ準備をするのです。
聖と俗は簡単に切り分けられるものではない。
俗の中に聖が宿り、悪の中にも正が宿る。
そうであるなら、「鬼」である私の家に「福」であるイエスが住んで下さるのなら、外を独りぼっちで寂しく彷徨い歩いている「鬼」や「邪悪な霊」の仲間を招き入れ、イエスの傍で一緒に休み、憩い、安眠することが出来るはずだ、と思うのです。
私たちは「鬼は外!福は内!」ではなく、胸を張って「福が内!鬼も内!」といえる「鬼」でありたい、と願うのです。
マタイ12:43~45
【寂しい悪霊たち】
日本には「鬼」という概念がありますが、イエスの時代のイスラエルでも、病気や怪我、障害、不慮の事故は目に見えない「悪の力」が引き起こすと考えられていました。
その総称が「汚れた霊」や「悪霊」です。
今日の箇所では、その「汚れた霊」はイエスによって宿主から追い出されると「砂漠をさまよい歩き休む場所を探す」のだと書かれています。
日本の鬼たちも寂しく路上を彷徨っているのですが、イスラエルの悪霊たちは砂漠を彷徨っているのです。
友人で行者をやっている人がいます。彼によると、修行中しょっちゅう視線を感じるのだそうです。何の視線かというと、人間でも、獣でもない、樹々でもない、何かとても邪悪なものの視線だそうです。
そして、その視線に気づいても決して目を合わせてはいけないそうです。近付いて行って正体を確かめようなどはもっての他。もし近づいたり目を合わせたら、その瞬間に憑りつかれ食い殺されてしまうのだそうです。
そういう「邪悪なもの」は深い森や、山奥のお滝場や、無人となった廃村には「必ずいる」といいます。
でも、見方を変えれば、行者の友人がいう「邪悪なもの」も「鬼」も、聖書に出てくる「汚れた霊」も、みな、独りぼっちなんですね。
一人寂しく、彷徨い歩いてる。
ホッと休める、暖かい場所を探して彷徨っている。
【空き家にしてたらダメだよ】
今日の箇所でイエスがいってるのは「だから、汚れた霊を追い出してもらったからといって空き家にしてると、また汚れた霊が戻ってきて棲みつかれてしまうよ」ということです。
それも、寂しいお仲間をたくさん引き連れて、棲みついてしまう。
そしてその人の状態は以前より悪くなるよ、と。
じゃあ、そんなことにならないために、「汚れた霊」を追い払ってもらった後の我が家には誰に住んでもらえばいいのかというと、邪悪な連中が恐れ戦いて近づけないほど眩しく光輝いている存在、簡単にいってしまうと「神さま」に住んでもらわないといけない。
【鬼は外、福は内?】
この箇所を読み、真っ先に思い浮かべるのは節分恒例の豆まきです。あの「鬼は外!福は内!」てやつです。
鬼は家の外にいっぱいいて、隙を見つけては家の中に侵入してくる。
それを撃退し、福だけを招き入れ、一年間の無病息災を祈願するあれですね。
イエスがいってるのとほんとによく似てます。
共通しているのは、邪悪なものが住めないように、福を招き入れるのは、その家の主人の選択と決断と努力によるのだ、というところ。
自分という器=家に、いったい誰に住んでいてほしいのか、私たちはその決断を迫られているのです。
しかし、当時ローマ帝国に支配され、街の至る所に進駐してきた兵がうろつき、それに怯えて暮らさなければならなかったイスラエルの人たちの状況を考えると、鬼は外に福だけ内に、などという二者択一はとても難しかっただろうと思うのです。
イエスの弟子の一人だった取税人マタイは、支配者側の傀儡に身を落とし、同胞から暴力的に通行税を巻き上げ贅沢な暮らしをしていた男です。
イエスの仲間であり、支援者であった女性たちの中には、進駐軍相手に売春をすることで一家を養い、生き延びていた人たちが少なからずいたはずです。
最初の弟子たちが漁師だった、というエピソードもまた、イエスに近い人たちが「聖」よりも「俗」の側に生きていた人たちだったことを示しています。
そもそもイエスの出自自体が「聖」とはいえない。
14歳くらいだったマリアが、ヨセフと婚約中に進駐して来ていたローマ兵に強姦され身ごもり、生まれたのがイエスだと、私は考えています。
イエスは馬小屋で生まれ餌を入れる桶の中に寝かされたといわれていますが、望まない妊娠出産ではあったけれど、不義の子を身ごもり生まなければならなかったマリアとその連れ合いヨセフに、郷里の親族が誰も部屋を貸さなかったのは当然のことだったろうと思うのです。
聖なるものに憧れ、清くなりたいと願い、祈り、捧げものをし、戒めを守って生きていても、現実はそこからどんどん遠ざかっていく。
正しくありたい自分が、どんどん邪悪なものになっていく。
そんな毎日の中で、私たちもまた「鬼は外!福は内!」などと軽はずみには口に出来ないのです。
なぜなら、もし鬼の部分を完全に排除しなければならないのだったら、自分自身がこの世から消滅しなければならないからです。
今日から待降節です。教会暦では今日がお正月。晴れ晴れとした気持ちでクリスマスを迎える準備を始める日です。
私たちは、自分が「鬼」であるにも関わらず、「光り輝く神」を我が家にお迎えする準備をするのです。
俗に生き、悪に染まる私たちの中に、聖であり正しい方が宿ってくださる。そのことを喜ぶ準備をするのです。
聖と俗は簡単に切り分けられるものではない。
俗の中に聖が宿り、悪の中にも正が宿る。
そうであるなら、「鬼」である私の家に「福」であるイエスが住んで下さるのなら、外を独りぼっちで寂しく彷徨い歩いている「鬼」や「邪悪な霊」の仲間を招き入れ、イエスの傍で一緒に休み、憩い、安眠することが出来るはずだ、と思うのです。
私たちは「鬼は外!福は内!」ではなく、胸を張って「福が内!鬼も内!」といえる「鬼」でありたい、と願うのです。