マタイ12:38~42



森に通って24年目に突入した。

あと2年たてば四半世紀になる。

森や田畑の四季を25回体感してきたことになる。


その中で思うのは、「四季とは命の輪廻だ」ということだ。

冬に死んだ者たちが、春に一斉に甦り、生きている喜びに満たされる。

いや、森の命たちは冬に死んだように見えるが、実は死んではいない。

一粒のどんぐりは秋に地面に落ちたあと、密かに根を伸ばし、春を待っている。

スズメバチの兵隊蜂たちは、朽木の中に潜み次の巣作りのために越冬する。


今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちから「救い主としての証拠を見せろ」と迫られたイエスは「ヨナのしるし」の話をする。

要は「十字架で死んで、三日目に甦る」それが証拠だ、といっているのだ。

実際キリスト教という宗教の生命線はこの「死と復活」にあるのだが、これがまた、キリスト教の分かりにくさ、受け容れに難さの原因でもある。

私も一度刑死したイエスが墓から、半分腐りかけた肉体のまま、のこのこ出てきたとは思っていない。


しかし、植物の四季を見る時、死と復活は日常的だ。

何十年、何百年、いや何千年前の種でも、条件が揃えば発芽する。

死んだようにしか見えない一粒の種が根を張り、芽を出し、成長していく。

植物は一旦種が落ち根を張ってしまうとそこからは動けない。

敵に襲われても逃げだせない。

そこがどんな場所であろうと、大地の栄養と天水と太陽の光だけを頼りに成長し、花を咲かせ、実を結び、また種を落とし、枯れていくしかない。

だがまさに、そのような弱々しく不自由な生き物の死と復活を見るたびに、私は、自分の持つ弱さや不自由さから解放されるような気がするのだ。

いや弱々しく不自由だからこそ、神さまから慈しまれていると感じるのだ。

私たちが植物と同じように根を張ったその場所からおいそれとは逃げ出せない者であるのなら、死んだようにしか見えない私たちの日常にも、神さまは雨を降らせ陽を注いぎ栄養を与えて下さっているはずだ。

今は死んでいても、私たちは必ず甦り、芽を出し花を咲かせ実を結ぶことが出来るはずなのだ。



今日は収穫感謝の日。

豊かな実りを前にして、私たちは神さまから与えられた約束を噛みしめたい。