マタイ12:33~37



【否定的な言葉は人を殺す】


言葉は怖ろしい。

たった一言で人を生かしもするし、殺しもする。

繋がりを生み、人を決して一人ぼっちにさせない言葉は人を生かす。

逆に、仲間外れにし、孤独に追いやる言葉は人を殺す。


考えたくもない話だが、生まれたばかりの赤ちゃんに否定語だけを語り続けるという実験をナチスは強制収容所の中で繰り返していたらしい。

母親から「生まれてこなければよかったのに」だの「早く死んでくれたらいいのに」だのという否定語を耳元で囁かれ続けた赤ちゃんは早い時は一日で、長くても1週間くらいで、みんな死んでいったという。

肯定的な言葉は人に喜びと希望を与え、その人を活き活きとさせる。

逆に、否定的な言葉は悲しみと絶望を与え、その人から元気を奪い、死に至らしめる。



【正の連鎖・負の連鎖】


では、肯定的な言葉・否定的な言葉は、どこから生まれてくるのかというと、

それはその人が肯定的な環境で育ったか否か、その人が今肯定的な環境に置かれているか否か、に起因するところが大きい。

肯定的な環境で育った人は肯定的な言葉を獲得する。

肯定的な人間関係の中にある人は肯定的な言葉を周囲の人に語ることが出来る。


よく言われることだが、親から虐待されて育つ子は、自分に対しても他者に対しても肯定的な言葉や態度を獲得するのが困難だ。

子への虐待を繰り返す親の成育歴を辿ると、必ずといっていいほど親自身が虐待を受けて育っている。

また、虐待されて育った女性が選ぶパートナーが、実は虐待癖のある男性だったりするのもよくある話だ。

要は正であれ負であれ、それは連鎖し、脈々と受け継がれていくという性質を持つ。


そして、もっと怖ろしいのは、肯定的な言葉や態度・関係性は簡単に否定的なそれらに堕ちてしまうが、その逆はなかなか難しいということだ。

一旦否定的な言葉や態度・関係性に支配されると、そこから脱け出すのは至難なのだ。



【良い木には、どうしたらなれる?】


今日の箇所の話は、少しでも果樹を育てたことのある人にはとてもよく分かる話だ。

健康な木には美味しい実が成る。

不健康な木には実が成らないか、成っても不味い実しか付かない。

「結果」という言葉からして、「果(=実)を結ぶ」という意味だ。

良いものからは良い結果しか出ないし、悪いものからは悪い結果しか出ない。

私たちは良い結果を出したいと思っている。

悪い結果を望むのは、よほどのへそ曲がりだろう。


では、私たちはどうやったら良い木になれるのだろうか?

動物とは「動く物」という意味だ。

植物とは「そこから自分の意思で動くことが出来ない物」という意味だ。

喉が渇いても水辺に行くことが出来ないし、陽射しがキツイからといって日陰を探すことも出来ないし、敵が襲って来ても逃げることが出来ずただ食われ続ける。

だから動物ではなく植物なのだ。

木はまた、どんなに望んでも、自分で良い木になることは出来ないし、良い実を結びたくても積極的に良い実を結ぶ良い木になることは出来ない。

つまり、良い木になるための根拠は、その木自身にはない、ということになる。



【約束】


今日の聖書の言葉を読むと、「努力して良い木になれ」「そうでなければ最後の審判の時に地獄に堕ちるぞ!」といわれているように思うが、実はそうではない。

私が、あなたが、良い木になれるかどうかは、私たち自身の中にはその根拠がないからだ。

ただ、身動きが取れず、その場に根を張り、枯れるまでそこで生き続けるしかない私たちを、良い木として下さる「誰か」の意思と支援があるから、私たちは良い木になることが出来るのだ。

「あなたを神のように完全な者にしてやる」と約束して下さったイエスは、ここでもまた「あなたを良い木にしてやる」と約束して下さっているのだ。

だとすれば、私たちはどんなに悲惨で否定的な境遇でも、自分たちの中にすでに喜びに満ちた、肯定的な言葉を備えられている。

自分を生かし、人を生かす言葉を持っているはずなのだ。

私たちが持っている辞書にはそのような言葉がさりげなく記載されている。

あとは、その辞書の膨大な数の語群から、元気が出る言葉を見つけ出し、積極的にそれを使えばいい。

その権限は私たちに委ねられている。