マタイ12:9~14



【手を伸ばして触る】


マタイが描くイエスは「手を差し伸べて、触る」人だ。

重い病気のせいで仲間外れにされている人に、手を差し伸べて触る。

生まれつき障がいがあって差別されている人に、手を差し伸べて触る。

裏切り者だと憎まれて一人ぼっちの人にも、手を差し伸べて触る。

職業のせいで差別されている人にも、手を差し伸べて触る。

とにかく、居場所がなくて、一人ぼっちの人に、手を差し伸べて触るのだ。


で、触ってもらった人たちに何が起こるこかというと、

みんな「お家」に帰る。

色んな理由で繋がりから排除されていた人たちが

元の繋がり、新しい繋がりに帰ることが出来たのだ。


バラバラだったものが元の一つの身体に戻る。

散り散りだったパーツが元通りに収まり、息を吹き返す。


甦り、とはそういうことをいうのだと思う。




【手に伸ばし触るのは健常者の特権ではない】


ところで、健常な人はイエスのこのような姿と出会ったとき、

「健常な者が何か差し障りのある人に手を差し伸べ、触る(つまり支援する)という使命を私も与えられている」と思うだろう。

私自身もそうなのだが、ついつい「大きい強い速い」者は「小さい弱い遅い」者を助けなければならないとは思っても、その逆が当たり前だとは思っていない。

つまり「大きい強い速い」者が「小さい弱い遅い」者に助けられることなどない、と
心のどこかで思っているのだ。

しかし、今日の箇所でイエスは、何と手に麻痺のある人に向かって
「手を伸ばせ」と命じられたのだ。

手が使えない人にも「手を伸ばして触れる」ということをイエスが求めた、ということに私は激しく揺さぶられた。

「手を伸ばして触れる」という繋がりの回復、癒しの業は、イエスだけの権能ではないのと同様、健常者だけに与えられた特権でもない、ということだからだ。



【支援の現場で日常的に起きる奇跡】


3月から始まった発達障害の子どもたちへの支援の現場でも、実はこのことは毎日のように起きている。

脳梗塞の後遺症で介助がなければ山道を歩くことが難しい子たちがいる。

その中の一人と私は先日急斜面の栗園で一緒に栗拾いをしたのだが、気が付くとその子は
力が入りにくい方の手と足を使って一所懸命毬から栗の実を取り出し、集めていたのだった。

もちろん最小限の身体の保持はしていたが、その子は身体的な不自由さを乗り越えて見せた。

力関係でいえば私は「大きく強い」者であり、その子は「小さく弱い」者だし、
物理的に支えているのは私で、支えられているのはその子なのだが、
その奇跡のような場面を共有した時、私はその子に強烈に支えてもらっている気がしたのだった。
その子の小さな手で触れてもらったことで、私はようやく「お家に帰る」ことが出来た気がしたのだった。

手を差し伸べ触れているのは私だけではない、
私もまたその子に手を差し伸べてもらい、手をしっかりと繋いでもらい、心の奥底に触れてもらい、押し隠していた痛みや苦しみを癒してもらっているのだ、感じたのだ。

「大きい強い速い」人は「小さい弱い遅い」人を侮ってはいけない。
「小さい弱い遅い」人もまた自らを蔑んではいけない。
「小さい弱い遅い」人にも手を伸ばし触れる力があり、
それによって「大きい強い速い」人は支えられ生きる力を与えられるからだ。

手が麻痺している人にも「手を伸ばして触れる」ことを求められたイエスのことを、
私は忘れない。