マタイ11:2~19
【自分らしさ、て何だろう】
私の周りを見渡しただけでも、「自分探し」や「自分らしさの探求」に余念がない人がたくさんいる。
「自分らしく」とは他人に指図されず、思うままに、自由闊達に生きることのようだ。
自律しているという点でいうと、それはそれでいいことなのかも知れないが、「自分らしく」を標榜する人に限って、一つの場所で踏ん張るとか、少々厭なことがあってもその仕事を頑張るとか、いうことが苦手のようだ。
住む場所を転々としたり、仕事を短期間で辞めてしまったり、付き合う相手をどんどん変えていったり…。
その理由を訊くと、「厭なことを強制された」「心を傷つけられた」「自分のこだわりを理解してもらえない」というような答えが返ってくる。
しかし果たして、「自分らしさ」とはこのような「自分から見た自分らしさ」だけを指すのだろうか。
【イエスやヨハネの「自分らしさ」とは】
今日の箇所に登場するバプテスマのヨハネという預言者は「救い主の到来を人々に告げ知らせる」ことを仕事にしていた人だ。
侵略と圧制、宗教に根差した差別、貧困に苦しむユダヤの一般庶民が求めていた「苦しみから解放して下さる神の子」が誰なのかを見極め、「この人が神の子=救い主だ」と宣伝するために、彼は存在した。
そのために彼は自分に苦行・荒行を課し、生きるか死ぬかギリギリのところで生活し、権力者に対する批判も公然と行ったために、官憲に捕まり投獄されていた。
そしてその彼に名指しされたのがイエスだ。
イエスの仕事は、4節・5節に書かれている通りだ。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と。
では、イエスやヨハネがそれぞれ「救い主」や「預言者」として生きることが、二人にとって「自分らしい」人生だったのかというと、それは違うと思う。
たとえばイエスは全人類の身代わりになって、何の罪もないのに自分の命を犠牲として捧げるという「職務」を全うしなければならなかったのだが、捕縛される前も、十字架に磔にされてからも神に対して「この苦しみから解放してほしい」と懇願している。
自分にとっての「自分らしさ」は、誰かの代わりに犠牲になることなんかではない。
しかし自分に使命を与えた神から見た「自分らしさ」は、十字架の上で死ぬことだ。
という矛盾した二つの「自分らしさ」を抱え持っていた。
厭なことを強制される、心が傷つけられる、自分のこだわりを理解してもらえない、なんてことは当たり前。
しかしそれでも果たさなければならない役目を、自分は背負っている。
そういうある種不本意な「自分らしさ」の中でイエスもヨハネも、生きていたのだ。
【与えられた役を演じ切る】
私たちは何かの役を演じて暮らしている。
たとえば男という役であったり、女という役であったり。
たとえば子ども、たとえば親、たとえば教師、たとえば介護者…。
たとえば健常者、たとえば障害者…。
ほんとはそんな役はまっぴら御免だ、と思っていても、その役がぴったり当たり役という場合もある。
逆にその役を演じたくても、一向に役が回ってこず、演じることが出来ない場合もある。
そんな役は「自分らしくない」と感じ、役を下りたいと願っても「あなた以外にこの役を演じ切れる人はいない」と周囲から評価を得、演じ続けなければならないこともある。
イエスやヨハネに関して言えば、きっと最後のケースに当てはまる。
厭だ厭だと思いながら、その役を下りることが許されないのだ。
なぜなら、役を任じているのが神さまだから。
翻って私たちは、とりあえず「救い主」でも「預言者」でもない。
ただの一般ピーポーだ。
不本意な仕事でこき使われ、クソみたいな日常を這い回っている。
自分にとっての「自分らしさ」があるとしたら、仕事の帰りに飲む生ビールくらいだろうか。
そんな日常に「神から与えられた役」なんてあるはずがない!と思えるような毎日だ。
しかし、自分にとって本位であるか不本意であるかを問わず、一人一人には、必ず、演じ切るべき役が与えられている。
大舞台の中央で多くの人から拍手を受ける役かもしれない。
逆にそれを演じることで孤立する役かもしれない。
逮捕され、殺されてしまう役かもしれない。
どんな役であっても、自分が願う「自分らしさ」とは違う役が回ってきた時でも
その役を演じ切る勇気がほしい、と思うのだ。
【自分らしさ、て何だろう】
私の周りを見渡しただけでも、「自分探し」や「自分らしさの探求」に余念がない人がたくさんいる。
「自分らしく」とは他人に指図されず、思うままに、自由闊達に生きることのようだ。
自律しているという点でいうと、それはそれでいいことなのかも知れないが、「自分らしく」を標榜する人に限って、一つの場所で踏ん張るとか、少々厭なことがあってもその仕事を頑張るとか、いうことが苦手のようだ。
住む場所を転々としたり、仕事を短期間で辞めてしまったり、付き合う相手をどんどん変えていったり…。
その理由を訊くと、「厭なことを強制された」「心を傷つけられた」「自分のこだわりを理解してもらえない」というような答えが返ってくる。
しかし果たして、「自分らしさ」とはこのような「自分から見た自分らしさ」だけを指すのだろうか。
【イエスやヨハネの「自分らしさ」とは】
今日の箇所に登場するバプテスマのヨハネという預言者は「救い主の到来を人々に告げ知らせる」ことを仕事にしていた人だ。
侵略と圧制、宗教に根差した差別、貧困に苦しむユダヤの一般庶民が求めていた「苦しみから解放して下さる神の子」が誰なのかを見極め、「この人が神の子=救い主だ」と宣伝するために、彼は存在した。
そのために彼は自分に苦行・荒行を課し、生きるか死ぬかギリギリのところで生活し、権力者に対する批判も公然と行ったために、官憲に捕まり投獄されていた。
そしてその彼に名指しされたのがイエスだ。
イエスの仕事は、4節・5節に書かれている通りだ。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と。
では、イエスやヨハネがそれぞれ「救い主」や「預言者」として生きることが、二人にとって「自分らしい」人生だったのかというと、それは違うと思う。
たとえばイエスは全人類の身代わりになって、何の罪もないのに自分の命を犠牲として捧げるという「職務」を全うしなければならなかったのだが、捕縛される前も、十字架に磔にされてからも神に対して「この苦しみから解放してほしい」と懇願している。
自分にとっての「自分らしさ」は、誰かの代わりに犠牲になることなんかではない。
しかし自分に使命を与えた神から見た「自分らしさ」は、十字架の上で死ぬことだ。
という矛盾した二つの「自分らしさ」を抱え持っていた。
厭なことを強制される、心が傷つけられる、自分のこだわりを理解してもらえない、なんてことは当たり前。
しかしそれでも果たさなければならない役目を、自分は背負っている。
そういうある種不本意な「自分らしさ」の中でイエスもヨハネも、生きていたのだ。
【与えられた役を演じ切る】
私たちは何かの役を演じて暮らしている。
たとえば男という役であったり、女という役であったり。
たとえば子ども、たとえば親、たとえば教師、たとえば介護者…。
たとえば健常者、たとえば障害者…。
ほんとはそんな役はまっぴら御免だ、と思っていても、その役がぴったり当たり役という場合もある。
逆にその役を演じたくても、一向に役が回ってこず、演じることが出来ない場合もある。
そんな役は「自分らしくない」と感じ、役を下りたいと願っても「あなた以外にこの役を演じ切れる人はいない」と周囲から評価を得、演じ続けなければならないこともある。
イエスやヨハネに関して言えば、きっと最後のケースに当てはまる。
厭だ厭だと思いながら、その役を下りることが許されないのだ。
なぜなら、役を任じているのが神さまだから。
翻って私たちは、とりあえず「救い主」でも「預言者」でもない。
ただの一般ピーポーだ。
不本意な仕事でこき使われ、クソみたいな日常を這い回っている。
自分にとっての「自分らしさ」があるとしたら、仕事の帰りに飲む生ビールくらいだろうか。
そんな日常に「神から与えられた役」なんてあるはずがない!と思えるような毎日だ。
しかし、自分にとって本位であるか不本意であるかを問わず、一人一人には、必ず、演じ切るべき役が与えられている。
大舞台の中央で多くの人から拍手を受ける役かもしれない。
逆にそれを演じることで孤立する役かもしれない。
逮捕され、殺されてしまう役かもしれない。
どんな役であっても、自分が願う「自分らしさ」とは違う役が回ってきた時でも
その役を演じ切る勇気がほしい、と思うのだ。