マタイ10:32~33



【読んでて気が重くなる】


マタイによる福音書10章は、読んでいてだんだん気が重くなる。

なぜなら、イエスの名代として派遣される弟子たちに対して

彼らが置かれる状況の厳しさとそれに負けず立ち向かう覚悟を求める言葉が書き連ねられているからだ。

弟子たちは、当時邪教であったキリスト教を広める伝道者として広場に立ち、辻に立って説法をせにゃならんかった訳で、官憲にとっつかまって牢獄に放り込まれ、殴打拷問は茶飯事で、処刑される可能性もありで、日々命の危機に晒されながら細く険しい夜道を歩いているようなものだった。

そのために、折角派遣されても、弟子たちは余りの苦しさに心が揺れ、迷い続けていたのだと思う。

さらには途中で挫折したり、逃亡する者がいたに違いない。

今日のこの箇所は、そのような「弱い」弟子たちを励ますというよりむしろ「脅す」ために書かれているように読める。

ここで設定されている弟子たちの人生の最終目標はこの世での幸せではない。

それは「最後の審判の時に、天国に行く」ことだ。

そのためには弟子たちは「イエスの仲間」「イエスの味方」でなければならない。

「イエスなんか知らない」と公言すれば、最後の裁きの時に証人として立ったイエスから「私もあなたを知らない」と証言され、地獄に堕ちる。

逆に「イエスを知っている。私はイエスの味方だ。イエスの仲間だ。」と公言した人は、イエスからも「私の味方だ。仲間だ。」と言ってもらって天国に昇れる。

さあ、どっちの道を選ぶ?と伝道者に迫ったのだ。

これではまるで自爆テロを推奨するどこかの宗教と同じやないかー!



【大事なことだけは分かってる】


ところで

前回ご紹介した「クソな現実に怒っている14歳男子」と先日また長い時間話すことができた。

有事関連法案が成立すれば徴兵制が導入され、自分はクソ政治家やクソ権力者によって殺される。

やはり彼はそのことにひどく憤っていた。


「俺は勉強もできねーし、こんな、どうしよーもねえ、ロクデナシだけどよー!大事なことだけは分かるんだ!」と彼は叫んだ。

「大事なことって?」と訊くと、彼はさらに大きな声で「そりゃー、愛と平和じゃねーかよー!」と話してくれた。

そして彼は「愛と平和」のために命掛けで闘う気持ちを固めつつある。

凄いのは「愛と平和」を得るために闘う以上、敵の兵士は殺せない、という点だ。

敵の兵士にも色んな事情があり仕方なく権力者の側についているだけで、本当は仲間なのだから殺す訳にはいかない。だから非殺傷兵器で倒しながら前に進むのだそうだ。

彼から非殺傷兵器の詳細は教えてもらえなかったけれど、誰も傷つけず殺さずに敵の本丸に迫ろうという考え方に感動した。


そして前回同様私は彼に「その考えと計画は賞賛に値するけれど、無駄死にはしたらアカンで!」、「最優先することは生き延びることやで!」と伝えた。

その時彼は苦しそうにこういった「俺よりもっと苦しい毎日を送ってる奴がいることを知ってて、俺だけ逃げて生き延びるなんて、俺にはできねえんだよ」と。



【誰の命令でもなく】


マタイ10章に書かれているような脅しによる訳でもなく、誰かに命令されている訳でもなく、ただ、自分の中から湧き出てくる正義感で、彼は闘おうとしている。

私は心底、この中学生男子をかっこいい!と思う。

彼がもし今日の聖書の言葉を読めばきっと「この言葉は間違っている」というだろう。

「愛と平和」を実現するために、脅しは必要ないんだぜー!というだろう。


今日の箇所は当時のキリスト教の切実な現実を背景にしているから仕方がないのだが、生前のイエスはこんなことは決して口にしなかったと私は思う。

イエスであればきっとこういっただろう。

「私を知らない、というあなたを私は心配でずっと見ていた」

「私の敵だ、というあなたであっても、私の味方だ」

「仲間ではない、というあなたも私の仲間だ」

と。


暴力に寄らず、敵対する者同士が和解出来る道を探したい。