マタイ9:18~26
【津波の夢】
2011年3月11日、東北地方を襲った巨大な地震。
私がフクシマに入ったのはその3年後だったけれど、南相馬市~浪江町にかけての沿岸部は津波の傷跡がまだまだくっきりと残っていた。
その時現地を案内して下さった渡辺さんは、津波の翌日、息子さん一家が住んでおられた住宅地を見に行き言葉を失ったそうだ。
マネキン人形の工場が壊れて流されたのではないかと思うほどの、夥しい数のご遺体が泥水の中に浮かんでいたからだった。
先日1年ぶりに再会した時も渡辺さんは「今でも同じ夢を見ます」といわれた。
お母さんにすがりつくようにして亡くなっている小さな女の子の夢だ。
可哀想に、苦しかったろう、辛かったろう、冷たかったろう…と手を合わせて見つめていると、その死んでいるはずの子が、水の中でゆっくりと顔を上げこっちを見る。
目と目が合う。
そしてハッとする。
何故なら、その子の顔が自分の孫娘の顔だったからだ。
渡邊さんには5人の子どもさんと11人のお孫さんがいらっしゃり、震災の時も無事に逃げ延びられている。
もちろん孫娘さんたちも無事だったのだが、夢の中に現れる小さな女の子は紛れもなく渡邊さんのお孫さんの一人なのだという。
一つ間違えば、子どもも孫も妻もみんな失くしていたに違いない…と渡邊さんは仰る。
亡くなった女の子と自分の孫との違いなんか、髪の毛ほどもないのだと、
だから、生き延びた者は精一杯踏ん張って生き続けなければなあ、と仰る。
【眠っているだけだ、と思いたい】
家族を喪くした者は、きっと皆こう思いたい、「この子は死んだのではない、ただ、眠っているだけなのだ」と。
震災で、津波で、原発事故で、家族を亡くした人たちの、このような思いが、渡辺さんの胸の中に流れ込み、渡辺さんは同じ夢を繰り返し見続けておられるのではないか、と私は考えている。
死んだように見えるけれど、顔を上げてこっちを見て、にっこり笑ってくれるに違いない、
死んだのではない、眠っているだけなんだ、と。
今日の箇所は、イエスの死と復活を想起させるための神話の一つだが、
その根底には、同じ思いが積み重なっている。
戦禍に巻き込まれ、自然災害に脅かされ、病魔に襲われ、家族が死ぬ。
何の理由もなく、理不尽極まりなく死ぬ。
そこで発せられる遺族の叫びが、この物語の通奏低音として響いている。
【再会の約束】
この神話の中で、イエスは一度死んだユダヤ教の指導者の娘を、「眠っているだけだよ」といって簡単に甦らせてしまう。
嘆きの夜が、喜びの宴に転じたのだ。
例によって、私はこんなことがほんとに起こったとは思わない。
けれど、この時イエスは間違いなく遺族たちに「悲しみを喜びに変える何か」を与えたのだ。
それは何か。
それは「再会の約束」だったのではないか。
遺された私たちもまた眠りに就く。
しかし必ず天国で目覚め、私たちは先に逝った者と再会する。
それも、イエスが上座に座る宴の席で再会する。
この約束があるからこそ、私たちは家族を喪い夢も希望も亡くしたような夜を迎えても、翌朝また顔を上げて立ち上がり、歩き出せるのだ。
震災で大切な家族を喪くされた方々に、この物語と同じように、慰めがありますように。
希望がありますように。
ただ願うだけでなく、私自身が、遺された方々に近付き寄り添う者となれますように。
【津波の夢】
2011年3月11日、東北地方を襲った巨大な地震。
私がフクシマに入ったのはその3年後だったけれど、南相馬市~浪江町にかけての沿岸部は津波の傷跡がまだまだくっきりと残っていた。
その時現地を案内して下さった渡辺さんは、津波の翌日、息子さん一家が住んでおられた住宅地を見に行き言葉を失ったそうだ。
マネキン人形の工場が壊れて流されたのではないかと思うほどの、夥しい数のご遺体が泥水の中に浮かんでいたからだった。
先日1年ぶりに再会した時も渡辺さんは「今でも同じ夢を見ます」といわれた。
お母さんにすがりつくようにして亡くなっている小さな女の子の夢だ。
可哀想に、苦しかったろう、辛かったろう、冷たかったろう…と手を合わせて見つめていると、その死んでいるはずの子が、水の中でゆっくりと顔を上げこっちを見る。
目と目が合う。
そしてハッとする。
何故なら、その子の顔が自分の孫娘の顔だったからだ。
渡邊さんには5人の子どもさんと11人のお孫さんがいらっしゃり、震災の時も無事に逃げ延びられている。
もちろん孫娘さんたちも無事だったのだが、夢の中に現れる小さな女の子は紛れもなく渡邊さんのお孫さんの一人なのだという。
一つ間違えば、子どもも孫も妻もみんな失くしていたに違いない…と渡邊さんは仰る。
亡くなった女の子と自分の孫との違いなんか、髪の毛ほどもないのだと、
だから、生き延びた者は精一杯踏ん張って生き続けなければなあ、と仰る。
【眠っているだけだ、と思いたい】
家族を喪くした者は、きっと皆こう思いたい、「この子は死んだのではない、ただ、眠っているだけなのだ」と。
震災で、津波で、原発事故で、家族を亡くした人たちの、このような思いが、渡辺さんの胸の中に流れ込み、渡辺さんは同じ夢を繰り返し見続けておられるのではないか、と私は考えている。
死んだように見えるけれど、顔を上げてこっちを見て、にっこり笑ってくれるに違いない、
死んだのではない、眠っているだけなんだ、と。
今日の箇所は、イエスの死と復活を想起させるための神話の一つだが、
その根底には、同じ思いが積み重なっている。
戦禍に巻き込まれ、自然災害に脅かされ、病魔に襲われ、家族が死ぬ。
何の理由もなく、理不尽極まりなく死ぬ。
そこで発せられる遺族の叫びが、この物語の通奏低音として響いている。
【再会の約束】
この神話の中で、イエスは一度死んだユダヤ教の指導者の娘を、「眠っているだけだよ」といって簡単に甦らせてしまう。
嘆きの夜が、喜びの宴に転じたのだ。
例によって、私はこんなことがほんとに起こったとは思わない。
けれど、この時イエスは間違いなく遺族たちに「悲しみを喜びに変える何か」を与えたのだ。
それは何か。
それは「再会の約束」だったのではないか。
遺された私たちもまた眠りに就く。
しかし必ず天国で目覚め、私たちは先に逝った者と再会する。
それも、イエスが上座に座る宴の席で再会する。
この約束があるからこそ、私たちは家族を喪い夢も希望も亡くしたような夜を迎えても、翌朝また顔を上げて立ち上がり、歩き出せるのだ。
震災で大切な家族を喪くされた方々に、この物語と同じように、慰めがありますように。
希望がありますように。
ただ願うだけでなく、私自身が、遺された方々に近付き寄り添う者となれますように。