マタイ9:14~17



【洗礼者ヨハネの弟子たち】


イエスは元々洗礼者ヨハネの仲間だった。

出家し荒野で獣の皮を着て、断食のような苦行を繰り返していた。

彼らが待っていたのは「最後の審判」だ。

この世の終わりの日に「神の子」が雲に乗ってやってきて、生きているものも既に死んでいるものもすべて裁きの座に引出し、天国に行くのか地獄に行くのかを峻別される。

彼らはその時を怖れ、清く正しく美しくあろうと懸命に苦行を繰り返した。

その彼らが、かつての仲間だったイエスの噂を聞き、疑問に思ったのは当然のことだ。

イエスは「大酒のみの大喰らい」「遊女と床を共にする者」と揶揄されており、弟子たちはまるで婚礼の客のように飲み食いし、歌い踊っていたからだ。



【新しい布は新しい服に、新しい葡萄酒は新しい革袋に】


どうしてあんたの弟子は断食をしないのか?

最後の裁きの日が怖くないのか?

とヨハネの弟子たちはイエスに訊ねた。

それに対してイエスが言った答えは

「新しい布は新しい服に使え、新しい葡萄酒は新しい革袋に入れて保存しろ。そうしないとどちらも無駄になる。」

というものだ。


ヨハネの弟子たちは「神の子」は近い将来やって来るけれど、まだ来ていない、と思い込んで荒行に励んでいた。

しかし、イエスにいわせれば「神の子」は既にこの世に来ているのだ。

なのに悲しい顔・苦しい顔をして苦行に励むとは頓珍漢にもほどがある、ということだろう。

そしてイエスは間もなく捕縛され十字架で惨殺される。

悲しい顔・苦しい顔をするならその時だ、折角天国への道を開いてくださった方が殺されてしまうのだから、と。



【頓珍漢ではなく】


先週私は福島県南相馬市の山間部に案内していただき、南相馬の渓流を守るボランティア活動を長年されてきた佐々木さんという方を訪ねた。

尾根を超せば飯舘村というアマゴの養殖場は、高濃度に汚染され、平均すれば3.0μSv/h、高い場所では国の基準値0.23μSv/hの四倍10.0μSv/hもの高線量区域だった。

しかし佐々木さんは「美しい古里の渓流を守るため」にここに通い、森を守り、アマゴを育てておられる。

原発事故以前と同じように、豊かで透き通った沢の水を飲み、アマゴを常食されていた。

私は佐々木さんとお話していて、先般亡くなられた後藤健二さんを思い浮かべていた。

どんなに危険な場所であっても、家族や友人や周囲の人間が引き留めても、この方もまた使命を果たすために「そこ」に行くのだ、と思った。

いま、ここで、自分は、神から、何を求められているのか、
ということを常に自分に問いかけ続け、行動する。

後藤さんや佐々木さんはそういう方々だ。

ヨハネの弟子やパリサイの人たちのように、自分が天国に行きたいためだけに、自分の満足のためだけに、修行を続ける人たちとは違うのだ。



私たちは神様から求められていることに頓珍漢であっては、神様の役に立つことが出来ない。

いざという時に間に合わない。

にも関わらず、

私たちは自分の流儀に拘る余り、神様からの求めに鈍感になっていないか?


そういえば、聖書のギリシア語で「罪」という言葉は「的外れ」という意味だそうだ。