マタイ9:9~13



【取税人という嫌われ者】


■福音書で徴税人といえばザアカイが有名だ。

教会学校のサマーキャンプなんかでよくテーマに取り上げられ、子どもたちからは「ザアカイさん」などと「さん」付けで呼ばれたりするのだが、

イエスの時代の徴税人は、そんな愛されキャラなんかではなかった。


■この箇所に登場するマタイも、ルカによる福音書に登場するザアカイも、
こぞって街の人々から嫌われ憎まれている「裏切り者」だった。

徴税人たちは支配者であるローマ帝国に対して、通行税を徴収する立場を入札によって手に入れていた。

そして落札価格を超えた通行税はすべて徴税人たちの懐に入るようになっていた。

だからこのマタイもザアカイも豪邸に住み、使用人を幾人も抱え、贅沢な暮らしが出来たのだ。


■街から街に移動するたびに徴税所があり、徴税人は恐らく「ならず者」を雇って通行人や旅人から暴力的に通行税を巻き上げていたのだろう。

異教の神を拝む支配者に取り入り、阿る(おもねる)ことで地位を得、同胞から不当に金銭を巻き上げる。
そんな取税人たちを憎悪する市民は山ほどいたはずだ。



【私たちにとっての嫌われ者】


■さてさて、支配者の手先となって彼らに利するだけでなく、自分たちの腹も肥やすような連中を、私たちは身近に知っている。

戦後の日本を動かしてきた政権与党と官僚たち、企業家たちだ。

最近の話でいうと、安倍という人物が首相になって以来何が起きているのか、ちょっと思い出せば腹が立って仕方がない。

消費税は値上がりしたが、介護にはまったく反映されていない。

介護保険料がさらに値上がりするが、介護報酬は下がる一方だ。

貧富の差はますますひどくなり、実質賃金は下がり、介護難民が溢れているというのに、役人と政治家の給料は上がり、大企業いだけは減税され、外国への支援と称して凄まじい額の税金が投入されていく。

ODAにしても、対テロ対策費にしても、要は日本の大企業や武器商人たちに税金が還流されるような仕組みになっている。

アメリカという支配者の手先になって税金を取り立て、余剰金で私服を肥やす。

そんな奴らと一緒に食事をしたり酒を飲んだりしたくない。

それがつつましく懸命に暮らす一般庶民の正直な思いだろう。


■だからこそ、取税人マタイに「ついてこい。弟子にしてやる」といい、そのマタイの家で食事をし、酒を飲み、寝泊まりするイエスを見て、

熱心なユダヤ教徒だったパリサイ派の人が「なぜ、先生はあんな連中と一緒にどんちゃん騒ぎが出来るのか?!」と疑問を持ったのは当然だと思う。

だが、イエスはとんでもないことを言い出す。

自分がこの世に生まれたのは、罪人を救うためだ、というのだ。

罪人とは神を裏切った者のことをいうのだが、ここでは嫌われ者の取税人のことを指す。

だとすれば彼らはイエスによって天国に行くことが許されたことになる。


■これって、権力者にいいように弄ばれ命の危機に曝されている庶民にとっては耐え難い話だ!

この世で甘い汁を吸って贅沢の限りを尽くし、のうのうと生きてきた連中が、

天国でイエスと一緒に食卓を囲むことさえ許してもらえるなんて、そんな不公平な!!と思うのは、庶民の感覚からすれば当然だ!


■しかし、イエスはいう。

私は罪びとを救うためにきた、と。

医者が必要なのは病人だ、と。

あんなやつ死んでしまえばいい!いなくなればいい!死んでも地獄にいってほしい!と私たちが思っている、腹立たしくて仕方ない連中、そいつらのためにこそ来たのだ、と。



【復讐から遠ざかる道】


■折りしも、自称「イスラム国」という集団に、ジャーナリスト後藤健二さんが殺害された。

彼は戦場、紛争地に赴き、必死で生き延びる子どもたちの写真を撮り続けていたクリスチャンだった。

彼が願っていたことは「復讐の連鎖を断つこと、憎しみの代わりに愛が広がること」だったという。

そのために何をすればいいのかを、後藤さんは自分と周囲に問い続けていたという。


■そうだ、私たちも問われている。

憎んで余りあるあいつらと、天国の食卓で、上座に座るイエスと共に、食事をし酒を飲み、歌い踊る、そんな日が来る。

いつか分からないが必ず来る。

その日、その時を喜んで迎えるために、私たちは何をすればいいのか?と。


■答えは分かってる。分かっているが、悔しくて出来ずにいるだけだ。

答えはこうだ。

憎んでいるだけではダメだ。

怒りや悲しみに囚われているだけでは、あいつらを赦し受け入れることなんか出来ない。

自分を赦して天国に招いてくれたイエスは、あいつらさえ赦して招いている。

そうだとしたら、私たちはこんな所で留まってる訳にはいかない。

争いと憎しみの道具として生きるのを止めて、平和の和解の道具として生きる道を進むのだ。



■悔しくて、分かっているけど出来ずにいる私たち。

後藤さんも愛唱していたというこの祈りを唱え続けたい。



「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。」

(聖フランシスコの平和の祈り)