マタイ9:1~7


【必要なのは癒しではなく赦し】



イエスの元にはたくさんの病人や障害者、悪霊に憑りつかれた人が集まり、あるいは担ぎ込まれてきた。

彼ら彼女らは「癒し」を求めてやってきた。

イエスはその望みに応えて人々を自由にした。

繋がりの中へと回復した。

繰り返し書いてきたことだけれど、

私は実際にイエスが病気や障害を治癒したとは思っていない。

イエスは病気や障害の故に繋がりから疎外されていた人々を、あるがままで繋がりの中に戻したのだ。


ところが、今日の箇所のイエスはちょっといつもと様子が違う。

「癒し」を求めて担ぎ込まれた中風の男に、イエスは「癒し」ではなく「赦し」を与えたのだ。


ここでいう「赦し」とは「許し」ではない。

生きることを許可された、というのではなく、神さまに対する罪から解放された、ということだ。

要は、この人が死んだあと、彼の魂は地獄ではなく天国に行くことが確約された、ということなのだ。


もうすぐ92歳になる私の父は時々、何の前触れもなく突然失神する。

先日も失神後眠り続ける父に付き添いながら私はふと、今日の箇所を思い出し、ああそういうことか、と思った。

その時の私は父の治癒よりも、このまま死ぬのなら、天国に召されてほしいと祈っていたからだ。


現代の日本に住む私たちは、やれアンチエイジングだの、健康サプリメントだのという言葉に弄ばれている。

それほど心身の健康、若々しさ、は大切なもののように教え込まれているのだが、

人にとって本当に必要なのは、(もちろん普段暮らしていく上で健康であるに越したことはないのだが)心身の健康なんかではない。

本当に私たちに必要なのは「癒し」ではなく「赦し」なのだ。

死んだあと、魂がどこにいくのかが、実は大問題なのだ。



【癒すのと赦すのとどっちが簡単か?】


今日の箇所の後半はイエスと律法学者の論争が描かれている。

律法学者は「赦す」といったイエスに対して「神を冒涜している」と思った。

なぜなら「赦す」ことは人には与えられていない能力だからだ。

神さまに背いた罪を「赦す」、それはただただ神さまにのみ属する権能なのだ。


この学者に対してイエスは問う。

「癒す」のと「赦す」のと、どっちの方が簡単か?と。

そしてイエスは実際に「癒し」て見せることで、「癒す」ことの方が簡単であることを示した。


私はこの場面から、非常に大きな勇気をもらった。

「赦す」は神の業、しかし「癒す」は人の業だといってもらった気がしたからだ。


私たちは普段、病気に苦しむ人、障害に苦しむ人を、癒したいと願いながら、癒すことなど出来ないと落胆しているのだが、実は違うのだ。

私たちは神さまからたくさんの贈り物を戴いている。

それらを一括りにしていうと、きっとそれは「癒す」ということなのだ!


私たちは笑顔で人を癒す、声をかけることで人を癒す、背中をさすり手を繋ぐことで人を癒す。

そうして繋がりから弾き出されていた孤独な人を、繋がりの中に回復する。

それが、私たちが神さまから備えられている気高い能力であり、究極の「自分らしさ」なのだ。


赦されている者同士が、受け入れ合い、支え合い、繋がり続けていく。

何の取り柄もないように見える私たち一人一人に、そういう「自分らしさ」が備えられているのなら、
拙くともまた、イエスに背中を押されながら、繋がるために、小さな歩みを前に進めたいと思うのだ。