マタイ8:28~34
【悪霊とは誰か】
「悪霊払い」はイエスの奇跡物語だけに限った話ではない。
恐らくイエス以前にもあっただろうし、パレスチナに限らず全世界的にいつの時代にもあった。
現代日本でも、ないものが見え、あるはずのない声を聞き、訳の分からないことを叫び、暴力をふるったり、獣のような振る舞いをする人はいる。
そのような人は大抵「精神病」と診断され、しかるべき医療機関で治療を受けるが、彼らを悪霊が憑いているとして「悪霊払い」という治療を施す人もいる。
では、悪霊とは何なのかというと、
① 何か弱みのある人に憑りつき
② その人の人格を支配し
③ 自分の利益のために思い通りに操る
ことを生業としている者のことだ。
要は、悪霊とは「外からは(他人からは)見えない形でマインドコントロールをする者」なのだ。
だとすれば、これは他人事ではない。
私たち自身もまた、悪霊となりうるし、現に、自分の利益のために、自分の姑息な満足のために他人に憑りつき、その人を支配し、操り、ほくそ笑んでいるのなら、私たちはすでに悪霊だ、ということになる。
【自分たちの死を受け入れた悪霊たち】
この箇所で登場する悪霊たちはユニークだ。
イエスが近づいて来たとき、かれらは自分たちの運命を自覚したのだろう。
彼らは自ら志願する。
憑りついていた男から豚の群れに自分たちを追い出してほしいと。
そして、彼らの求めに応じてイエスは彼らを豚の群れに憑りつかせる。
その途端彼らは(豚の群れは)崖からガリラヤ湖に転落し、死んでしまったのだ。
もちろん豚の管理をしていた豚飼いたちは驚き、その話を聞いた村人たちは、あまりのことにイエスに恐怖した。
そりゃそうだろう、墓地に住み、暴力的で手が付けられずにいた悪霊に憑りつかれた男たちを悪霊から解放したばかりか、
悪霊を豚に移し、豚もろとも悪霊を死滅させる人間が現れたのだ。
びっくりして、イエスにビビりまくったのは当然だと思う。
【差し迫った死に直面して】
翻って、私たちは死が差し迫った時、どんな態度を取るのだろうか。
12月30日のLOGMEに、アメリカの救急救命士マシュー・オライリーさんの講演の内容が掲載されていた。
http://logmi.jp/32787
7年間、多くの「あと数分で死ぬ患者」と対峙した経験からオライリーさんは、彼らは共通した態度を取ることを発見したのだという。
「差し迫った死に直面した時に人間はまず「安堵し」、そして「自分の死を受け入れる」。
そのあとの態度には3つのパターンがある。
① 赦しを乞う
② 自分が生きていたことを記憶しておいてほしいと願う
③ 自分の人生に意味があったことを知りたい
これを今日の記事に当てはめてみると一つの発見がある。
悪霊たちは、自分たちのやっていることから解放されたいと願っていたのではないか。
自分たちをこの悪行から解放し、安らかに死なせてくれる者の到来を切望していたのではないか。
ということだ。
だからこそ、彼らはイエスという「死をもたらす者」が現れたことで安堵し、死を受け入れ、
赦しを乞うたのではないのか。
そして彼らは豚の群れと共に死ぬ、というダイナミックな最期を遂げることで人々に記憶され、聖書にも記録され、私たちにも強烈な印象を残すことが出来た。
さらに、彼ら悪霊は、イエスが付与された神の権威を人々に告げ知らせることで、自分たちには「意味ある役割」が与えられていたことを確認出来たのだ。
【感謝】
ところで、先の記事には3つのパターンとあるけれど、私は一つ足りないものがあると思った。
それは「感謝」ということだ。
差し迫った死に直面した人を私も幾人か知っているが、その中で「有難う、有難う」とすぐ近くにいる人たちにいい続けた人たちがいる。
彼らは、今までの人生に感謝し、いま傍にいる人に感謝し、このあと自分を受け入れてくれる存在に向かって感謝していた。
彼らは赦しを乞うことも、自分を覚えておいてほしいと願うことも、自分の人生に意味があったのかを確かめることもしなかった。
何故なら、
彼らは既に罪が赦されていることを知っていたし
自分が永遠に記憶されていることを知っていたし
自分の人生には大きな大きな意味があったことを知っていたからだ。
イエスによって死滅させられた悪霊たちは「感謝」の気持ちを抱きながら湖面に向かって落ちて行ったのだろうか?
私たちは果たして、死の直前、神と人とに感謝することが出来るのだろうか。
ちなみに、私が臨終に立ち会わせてもらえた「感謝しながら死んだ人たち」は
全員、お百姓さんや木こりさんや漁師さんといった、第一次産業を生業としていた方たちだった。
逆に、人と神とに恨み事をいい続けて亡くなった人たちは「先生」と呼ばれる仕事をしていた人たちだった。
【悪霊とは誰か】
「悪霊払い」はイエスの奇跡物語だけに限った話ではない。
恐らくイエス以前にもあっただろうし、パレスチナに限らず全世界的にいつの時代にもあった。
現代日本でも、ないものが見え、あるはずのない声を聞き、訳の分からないことを叫び、暴力をふるったり、獣のような振る舞いをする人はいる。
そのような人は大抵「精神病」と診断され、しかるべき医療機関で治療を受けるが、彼らを悪霊が憑いているとして「悪霊払い」という治療を施す人もいる。
では、悪霊とは何なのかというと、
① 何か弱みのある人に憑りつき
② その人の人格を支配し
③ 自分の利益のために思い通りに操る
ことを生業としている者のことだ。
要は、悪霊とは「外からは(他人からは)見えない形でマインドコントロールをする者」なのだ。
だとすれば、これは他人事ではない。
私たち自身もまた、悪霊となりうるし、現に、自分の利益のために、自分の姑息な満足のために他人に憑りつき、その人を支配し、操り、ほくそ笑んでいるのなら、私たちはすでに悪霊だ、ということになる。
【自分たちの死を受け入れた悪霊たち】
この箇所で登場する悪霊たちはユニークだ。
イエスが近づいて来たとき、かれらは自分たちの運命を自覚したのだろう。
彼らは自ら志願する。
憑りついていた男から豚の群れに自分たちを追い出してほしいと。
そして、彼らの求めに応じてイエスは彼らを豚の群れに憑りつかせる。
その途端彼らは(豚の群れは)崖からガリラヤ湖に転落し、死んでしまったのだ。
もちろん豚の管理をしていた豚飼いたちは驚き、その話を聞いた村人たちは、あまりのことにイエスに恐怖した。
そりゃそうだろう、墓地に住み、暴力的で手が付けられずにいた悪霊に憑りつかれた男たちを悪霊から解放したばかりか、
悪霊を豚に移し、豚もろとも悪霊を死滅させる人間が現れたのだ。
びっくりして、イエスにビビりまくったのは当然だと思う。
【差し迫った死に直面して】
翻って、私たちは死が差し迫った時、どんな態度を取るのだろうか。
12月30日のLOGMEに、アメリカの救急救命士マシュー・オライリーさんの講演の内容が掲載されていた。
http://logmi.jp/32787
7年間、多くの「あと数分で死ぬ患者」と対峙した経験からオライリーさんは、彼らは共通した態度を取ることを発見したのだという。
「差し迫った死に直面した時に人間はまず「安堵し」、そして「自分の死を受け入れる」。
そのあとの態度には3つのパターンがある。
① 赦しを乞う
② 自分が生きていたことを記憶しておいてほしいと願う
③ 自分の人生に意味があったことを知りたい
これを今日の記事に当てはめてみると一つの発見がある。
悪霊たちは、自分たちのやっていることから解放されたいと願っていたのではないか。
自分たちをこの悪行から解放し、安らかに死なせてくれる者の到来を切望していたのではないか。
ということだ。
だからこそ、彼らはイエスという「死をもたらす者」が現れたことで安堵し、死を受け入れ、
赦しを乞うたのではないのか。
そして彼らは豚の群れと共に死ぬ、というダイナミックな最期を遂げることで人々に記憶され、聖書にも記録され、私たちにも強烈な印象を残すことが出来た。
さらに、彼ら悪霊は、イエスが付与された神の権威を人々に告げ知らせることで、自分たちには「意味ある役割」が与えられていたことを確認出来たのだ。
【感謝】
ところで、先の記事には3つのパターンとあるけれど、私は一つ足りないものがあると思った。
それは「感謝」ということだ。
差し迫った死に直面した人を私も幾人か知っているが、その中で「有難う、有難う」とすぐ近くにいる人たちにいい続けた人たちがいる。
彼らは、今までの人生に感謝し、いま傍にいる人に感謝し、このあと自分を受け入れてくれる存在に向かって感謝していた。
彼らは赦しを乞うことも、自分を覚えておいてほしいと願うことも、自分の人生に意味があったのかを確かめることもしなかった。
何故なら、
彼らは既に罪が赦されていることを知っていたし
自分が永遠に記憶されていることを知っていたし
自分の人生には大きな大きな意味があったことを知っていたからだ。
イエスによって死滅させられた悪霊たちは「感謝」の気持ちを抱きながら湖面に向かって落ちて行ったのだろうか?
私たちは果たして、死の直前、神と人とに感謝することが出来るのだろうか。
ちなみに、私が臨終に立ち会わせてもらえた「感謝しながら死んだ人たち」は
全員、お百姓さんや木こりさんや漁師さんといった、第一次産業を生業としていた方たちだった。
逆に、人と神とに恨み事をいい続けて亡くなった人たちは「先生」と呼ばれる仕事をしていた人たちだった。