■■■3回連続同じ箇所で済みません。
またマタイ8:17です。
イエスは「私たちの煩いと病いを背負い、病んでくれた」という言葉。
「スピーカー」の時は、
http://ameblo.jp/yourwaves/entry-11956782790.html
「いったいどうやって何千人もの人々と一緒に心の深い淵まで沈んでいながら、イエスはそこから毎回生還していたのか、本当に不思議なのだ。」と書いた。
なぜなら、自分がカウンセリングということをするときいつも、ひどく疲れるからだ。
2時間の面接で、100m20秒のペースで5000m走るくらい疲れる。
ひどい時なら翌日起き上がれなくなるくらい疲れる。
逆に相談者は、文字通り甦ったようにお元気になっておられるから、仕事としては大成功なのだろうが、自分へのダメージがあまりにも大きくて、沢山の数をこなせない。
だからイエスはどうやってそのダメージを取り除いていたのか、本当に不思議だった。
■■■だが昨夜、「待つために、私たちはもっと絶望していい」を書きながらふと、光が射したような気がした。
イエスの癒しの形を「自分も煩う、自分も病む、自分も死ぬ、しかし自分も生き返る」と書いたのだが、「自分も死ぬ、しかし自分も生き返る」という言葉に謎を解く鍵があるように思えたのだ。
苦しみ悩み病む人と一緒に死ぬ、
そしてその人と一緒に甦る
ということは、十字架に架けられて死に、3日目に甦ったイエスは実は孤独ではなかったということだ。
■■■私は住吉の長屋で獣医の家に生まれたが、父母が熱心な改革派系のクリスチャンだったために、毎週土曜日の14:00から我が家では教会学校が開かれていた。
生まれる前から賛美歌を聞き、聖書の言葉を聞いて育った。
その中で、私が強烈に刷り込まれたものの一つが
「イエスはたった一人で死に、たった一人で甦った」という重く暗いイメージだった。
そしていつの間にか私はこのような死に方に憧れを持つようになった。
イエスのように、人々の苦しみ悩み、病を肩代わりして、孤独で悲惨な死に方をすることが、ひどくカッコいいことだと思うようになった。
だから、カウンセリングという仕事をするようになってからも、身代わりになるのだから、しんどくなるのは当たり前だと思っていた。
そういう立ち位置で聖書を読むから、イエスのワンダフルカウンセラーぶりが不思議で仕方がなかった。
しかし!、
しかし!
しかし!
そうではないのだ、きっと!
イエスはいつも一人で煩い、一人で病んだのではない。
癒しを切望し、集まってきた、その一人一人と一緒に(!)煩い、病んだのだ。
私たちの罪を背負い十字架に架けられた時も、イエスは一人で殺されたのではないのだ。
そこで私たちも一緒に十字架に架けられ、私たちも一緒に殺されたのだ。
死の淵に下る時も、暗闇から光あるところに浮上する時も、そして甦ったその時も、
イエスは一人ではなかった。
私たちも一緒に死の淵に下り、暗闇から光へと浮上し、甦ったのだ。
そう思えた瞬間、私は、自分もイエスのようなワンダフルカウンセラーになれそうな気がした。
なぜなら、私はもう一人ぼっちではないからだ。
相談者だけ助けて、自分は死んでしまうような寂しいカウンセリングをしなくていい。
誰かの身代わりになって一人ぼっちで死んでいくなんていうのは、身勝手なヒロイズムなのだ。
「カウンセリングを通して、クライアントは孤独から解放される。
それと同時に、カウンセラーもまた孤独ではないことを知る。」
学生の時、指導教官だったニノミヤ先生からいわれた言葉が今頃になって、胸に明るく響いている。
またマタイ8:17です。
イエスは「私たちの煩いと病いを背負い、病んでくれた」という言葉。
「スピーカー」の時は、
http://ameblo.jp/yourwaves/entry-11956782790.html
「いったいどうやって何千人もの人々と一緒に心の深い淵まで沈んでいながら、イエスはそこから毎回生還していたのか、本当に不思議なのだ。」と書いた。
なぜなら、自分がカウンセリングということをするときいつも、ひどく疲れるからだ。
2時間の面接で、100m20秒のペースで5000m走るくらい疲れる。
ひどい時なら翌日起き上がれなくなるくらい疲れる。
逆に相談者は、文字通り甦ったようにお元気になっておられるから、仕事としては大成功なのだろうが、自分へのダメージがあまりにも大きくて、沢山の数をこなせない。
だからイエスはどうやってそのダメージを取り除いていたのか、本当に不思議だった。
■■■だが昨夜、「待つために、私たちはもっと絶望していい」を書きながらふと、光が射したような気がした。
イエスの癒しの形を「自分も煩う、自分も病む、自分も死ぬ、しかし自分も生き返る」と書いたのだが、「自分も死ぬ、しかし自分も生き返る」という言葉に謎を解く鍵があるように思えたのだ。
苦しみ悩み病む人と一緒に死ぬ、
そしてその人と一緒に甦る
ということは、十字架に架けられて死に、3日目に甦ったイエスは実は孤独ではなかったということだ。
■■■私は住吉の長屋で獣医の家に生まれたが、父母が熱心な改革派系のクリスチャンだったために、毎週土曜日の14:00から我が家では教会学校が開かれていた。
生まれる前から賛美歌を聞き、聖書の言葉を聞いて育った。
その中で、私が強烈に刷り込まれたものの一つが
「イエスはたった一人で死に、たった一人で甦った」という重く暗いイメージだった。
そしていつの間にか私はこのような死に方に憧れを持つようになった。
イエスのように、人々の苦しみ悩み、病を肩代わりして、孤独で悲惨な死に方をすることが、ひどくカッコいいことだと思うようになった。
だから、カウンセリングという仕事をするようになってからも、身代わりになるのだから、しんどくなるのは当たり前だと思っていた。
そういう立ち位置で聖書を読むから、イエスのワンダフルカウンセラーぶりが不思議で仕方がなかった。
しかし!、
しかし!
しかし!
そうではないのだ、きっと!
イエスはいつも一人で煩い、一人で病んだのではない。
癒しを切望し、集まってきた、その一人一人と一緒に(!)煩い、病んだのだ。
私たちの罪を背負い十字架に架けられた時も、イエスは一人で殺されたのではないのだ。
そこで私たちも一緒に十字架に架けられ、私たちも一緒に殺されたのだ。
死の淵に下る時も、暗闇から光あるところに浮上する時も、そして甦ったその時も、
イエスは一人ではなかった。
私たちも一緒に死の淵に下り、暗闇から光へと浮上し、甦ったのだ。
そう思えた瞬間、私は、自分もイエスのようなワンダフルカウンセラーになれそうな気がした。
なぜなら、私はもう一人ぼっちではないからだ。
相談者だけ助けて、自分は死んでしまうような寂しいカウンセリングをしなくていい。
誰かの身代わりになって一人ぼっちで死んでいくなんていうのは、身勝手なヒロイズムなのだ。
「カウンセリングを通して、クライアントは孤独から解放される。
それと同時に、カウンセラーもまた孤独ではないことを知る。」
学生の時、指導教官だったニノミヤ先生からいわれた言葉が今頃になって、胸に明るく響いている。