※ 日本キリスト教団久宝教会 待降節第一主日礼拝 メッセージ

マタイ8:16~17



【マタイが伝えたかったイエス】


マルコが描いたイエスは、一言でいうと「真っ直ぐ見る人」だ。

ペトロたちを弟子にした時、イエスは彼らを真っ直ぐ見た。

それまで人として認められず、見ることすら憚られてきた彼らは、

生まれて初めて家族や村の仲間以外の人から真っ直ぐ見てもらえたのだ。

そして、イエスが「真っ直ぐ見た」ことで喪われていたはずの「つながり」が回復した。


では、マタイが描いたイエスを一言でいうならどうなるか。

私は、「手を差し伸べ、触れる」人だと思う。

マタイが伝えたかったイエスは威張らない。

偉そうにしない。

目の前に現れる者に真っ直ぐ手を差し伸べ、触る。

糞尿にまみれた者、膿だらけの者、誰からも触られることを拒否されるような人でも、イエスは平気で触る。

何の躊躇もなく、すっと手を伸ばし触るのだ。


そして、イエスはある目的のために触る。

それは17節に『彼は私たちの煩いを身に受け、私たちの病を背負った』とある通りだ。

イエスは、本人と同じように煩い、本人と同じ病になることで、押し寄せる病人を治し続けた。

ヘンデルの「メサイア」の中でイエスは「ワンダフル カウンセラー」と表現されているが、

本人と一緒に苦しみの淵に沈み、一緒にまた浮上し、再生する、という「癒し」を

何千人もの人に対して実行できた、まさに驚異的なカウンセラーだったのだと思う。

自分も煩う、自分も病む、自分も死ぬ、しかし自分も生き返る、

そのためにイエスは手を差し伸べ、触り続けたのだ。



【私たちは手を差し伸べ、触れているか】


翻って私たちはどうだろうか?

介護や保育、看護や教育の現場で働くみなさんは、日々、

助けを必要とする子どもや大人に適切な支援をし続けておられるけれど、

それは、イエスのように、真っ直ぐ手を伸ばし、目の前のその子に、その人に、触れるような支援となっているだろうか?

その人の体温を、湿り気を、不安を、怒りを、焦りを、哀しみを、そしてまた喜びを、触れることによって感得できているだろうか?

決められたことをただ繰り返しているだけで、その人の真実に触れようとしていないのではないか?

それは仕事に限らない、家庭でも、地域生活でも、私たちは家族や近隣の人に手を差し伸べているだろうか?

手を触れているだろうか?



【もっと絶望しよう、もっと待ち望もう】


自分の胸に手を当ててみれば簡単なことだ。

私たちは最も身近な存在である家族にさえ、手を差し伸べることが満足に出来ていない。

ほんとに助けを求める人に触れることも出来ていない。

そう考えると、私たちの日常はいかに「つながる」ことから遠いのか。

絆といい、支援といいながら、家族といい、隣人といいながら、私たちは実に「つながる」ことから遠いのだ。


クリスマスはイエスが生まれたことを記念し、喜ぶ日であり、

今日から始まる待降節は、イエスの誕生を待ち望む期間だ。


これから12月25日まで、「つながれない」自分たちに、私たちはもっと絶望しよう。

「つながりたくても、つながれない」自分たちに、もっと絶望しよう。

大切な人とつながれない、助けを求めている人につながれない自分たちに絶望しよう。


そうすればきっと分かる、「待つ」意味が。

つながれない私たちをつないで下さる方を待つ意味が。