マタイ8:14~17
【在家でもOK】
4章18節以下に、イエスがペトロを始めとする漁師たち4人を弟子として召された場面が出てくる。
「おまえたちを、人間をすなどる漁師にしてやろう」とイエスはいった。
彼らは漁具も家族もその場に置いて、イエスの後に従ったと書かれているのだが、
今日の箇所を読むと、どうやら、彼らは完全に家族を捨て、家を出たのではないようだ。
弟子たちはイエスと共に出家して修道生活をしていた訳ではなく、相変わらず両親や妻や子どもがいる我が家に帰り、今まで通りの生活をしていたのだ。
このことを憤られる向きもあるだろう。
イエスに直接声をかけられ「ついてこい」といってもらい、弟子になったのに、
この中途半端さは一体どういうことだ?!と。
しかしむしろ、イエスと弟子たちとのこの「緩い」関係に私は安堵する。
イエスは平凡な人々の日常を、人と人との関係やそこに在る感情を、決して否定していない。
家族に愛された男たちが、家にとどまり、時折漁を手伝い、一緒に食事をし、談笑し、一つ屋根の下で眠ることをイエスは微笑ましく眺めていたのではないか。
「信仰を取るか、家族を取るか」で悩む人がいるけれど、
イエスは恐らく「家族を大切にしなさい、そのせいで礼拝に来れなくても心配しなくていい、
私はそんなあなたとずっと一緒にいる」と仰っているのではないか。
【ママはスピーカー】
さて、今日の箇所でもイエスは癒しの奇跡を起こす。
高熱で苦しむペトロのしゅうとめに「手を差し伸べ、触れる」のだ。
途端に彼女は元気になり、起き上がってイエスをもてなした。
面白いのはそのあとだ。
夕方になって近隣の人々がペトロの家に押し寄せてきたのだ。
イエスはそこで同じように奇跡を起こす。
悪魔に憑かれた者からは悪魔を追い出し、
病気の者の病気をことごとく癒した。
なぜこんなに大勢の人が集まったのかというと、
私は、ペトロのお姑さんが、街でも有名なスピーカーだったからだと思っている。
高熱でぶったおれていた自分を、手で触れるだけで元気にしてしまった先生の話を、
彼女は町のそこかしこでふれて回ったのではないだろうか。
ここには驚きや感動が、幸福感が、新しい人と人とのつながりが、
人から人へとどう伝わっていくかの機微が描かれている。
それはとても簡単な話だ。
① 出会う
② 出会いによって自分に、明らかな、良い変化が起こる
③ その喜びを他人に伝えずにはおれなくて、伝える
③によって情報を得た人は、①に向かう。
そしてこの①~③が繰り返されるのだ。
かくして、ペトロのお姑さんや大勢の人々はイエスと出会い、奇跡を経験し、喜び勇んで
その出来事を周囲の人々に告げるスピーカーになった。
【奇跡の秘密】
次に、イエスの奇跡に目を向けてみよう。
現代でも奇術師は心霊手術をやってのけるし、驚くような奇跡も見せてくれる。
当時も妖しげな祈祷師や魔術師はうようよいたはずだ。
にもかかわらずイエスがそのような怪しい連中と混同されることなく、
権威ある人として人気を集めたのはなぜだったのか。
旧約聖書の引用にはこうある。
「彼は私たちの煩いを身に受け、私たちの病を背負った」と。
イエスが他の怪しい連中と決定的に違うのは、「目の前の人の煩いを身に受け、病を背負う」という方法をとった点だ。
苦悩する人の苦悩を自分が引き受ける。
病気の人の病を自分が背負う。
イエスはきっと、目の前にいる煩い・病む人に手をさしのべ、触れた瞬間に、
その本人以上に煩い・病むことが出来たのだろう。
イエスが本人以上に煩い・病み、それと同時にさっきまで煩い・病んでいた人がどんどん元気になっていく。そんなことが常に繰り返されていたのだろう。
イエスは圧倒的で全面的で無条件の受容が出来た人、「驚くべきカウンセラー」だったのだ!
【なぜイエスは病まなかったのか】
ところで、カウンセリングを仕事にしている人なら日常的に経験していることだが、
優れたカウンセラーほど病む。
クライアントと同じように、いやそれ以上に煩い・病むことを繰り返しているうちに
クライアントと一緒に沈んだ深い淵から浮かび上がってこれなくなることがあるからだ。
援助職に就く人で、精神的なトラブルを抱え苦しむ人は少なくない、そのせいで家庭生活が破綻することも珍しくない。
実際優れた精神科医やカウンセラーは、素人から見ると、精神に異常をきたした怪しい人に見える。
イエスが生涯で癒した人の数はどれくらいか分からないが、数千人の群衆に囲まれるのが日常だったとすれば、気が遠くなるほどのカウンセリングをし続けたに違いない。
だとすれば、イエスが、ほとんど笑わない、視線も定まらない、暗い顔をした、挙動不審な男だったとしてもおかしくない。
もしそうではなく、花のように笑い、相手をしっかりと見つめ、太陽のように明るい顔をした、温かく穏やかな人だったのだとしたら、イエスは背負った物をいったいどこに置いてきたのだろうか。
いったいどうやって何千人もの人々と一緒に心の深い淵まで沈んでいながら、イエスはそこから毎回生還していたのか、本当に不思議なのだ。
【在家でもOK】
4章18節以下に、イエスがペトロを始めとする漁師たち4人を弟子として召された場面が出てくる。
「おまえたちを、人間をすなどる漁師にしてやろう」とイエスはいった。
彼らは漁具も家族もその場に置いて、イエスの後に従ったと書かれているのだが、
今日の箇所を読むと、どうやら、彼らは完全に家族を捨て、家を出たのではないようだ。
弟子たちはイエスと共に出家して修道生活をしていた訳ではなく、相変わらず両親や妻や子どもがいる我が家に帰り、今まで通りの生活をしていたのだ。
このことを憤られる向きもあるだろう。
イエスに直接声をかけられ「ついてこい」といってもらい、弟子になったのに、
この中途半端さは一体どういうことだ?!と。
しかしむしろ、イエスと弟子たちとのこの「緩い」関係に私は安堵する。
イエスは平凡な人々の日常を、人と人との関係やそこに在る感情を、決して否定していない。
家族に愛された男たちが、家にとどまり、時折漁を手伝い、一緒に食事をし、談笑し、一つ屋根の下で眠ることをイエスは微笑ましく眺めていたのではないか。
「信仰を取るか、家族を取るか」で悩む人がいるけれど、
イエスは恐らく「家族を大切にしなさい、そのせいで礼拝に来れなくても心配しなくていい、
私はそんなあなたとずっと一緒にいる」と仰っているのではないか。
【ママはスピーカー】
さて、今日の箇所でもイエスは癒しの奇跡を起こす。
高熱で苦しむペトロのしゅうとめに「手を差し伸べ、触れる」のだ。
途端に彼女は元気になり、起き上がってイエスをもてなした。
面白いのはそのあとだ。
夕方になって近隣の人々がペトロの家に押し寄せてきたのだ。
イエスはそこで同じように奇跡を起こす。
悪魔に憑かれた者からは悪魔を追い出し、
病気の者の病気をことごとく癒した。
なぜこんなに大勢の人が集まったのかというと、
私は、ペトロのお姑さんが、街でも有名なスピーカーだったからだと思っている。
高熱でぶったおれていた自分を、手で触れるだけで元気にしてしまった先生の話を、
彼女は町のそこかしこでふれて回ったのではないだろうか。
ここには驚きや感動が、幸福感が、新しい人と人とのつながりが、
人から人へとどう伝わっていくかの機微が描かれている。
それはとても簡単な話だ。
① 出会う
② 出会いによって自分に、明らかな、良い変化が起こる
③ その喜びを他人に伝えずにはおれなくて、伝える
③によって情報を得た人は、①に向かう。
そしてこの①~③が繰り返されるのだ。
かくして、ペトロのお姑さんや大勢の人々はイエスと出会い、奇跡を経験し、喜び勇んで
その出来事を周囲の人々に告げるスピーカーになった。
【奇跡の秘密】
次に、イエスの奇跡に目を向けてみよう。
現代でも奇術師は心霊手術をやってのけるし、驚くような奇跡も見せてくれる。
当時も妖しげな祈祷師や魔術師はうようよいたはずだ。
にもかかわらずイエスがそのような怪しい連中と混同されることなく、
権威ある人として人気を集めたのはなぜだったのか。
旧約聖書の引用にはこうある。
「彼は私たちの煩いを身に受け、私たちの病を背負った」と。
イエスが他の怪しい連中と決定的に違うのは、「目の前の人の煩いを身に受け、病を背負う」という方法をとった点だ。
苦悩する人の苦悩を自分が引き受ける。
病気の人の病を自分が背負う。
イエスはきっと、目の前にいる煩い・病む人に手をさしのべ、触れた瞬間に、
その本人以上に煩い・病むことが出来たのだろう。
イエスが本人以上に煩い・病み、それと同時にさっきまで煩い・病んでいた人がどんどん元気になっていく。そんなことが常に繰り返されていたのだろう。
イエスは圧倒的で全面的で無条件の受容が出来た人、「驚くべきカウンセラー」だったのだ!
【なぜイエスは病まなかったのか】
ところで、カウンセリングを仕事にしている人なら日常的に経験していることだが、
優れたカウンセラーほど病む。
クライアントと同じように、いやそれ以上に煩い・病むことを繰り返しているうちに
クライアントと一緒に沈んだ深い淵から浮かび上がってこれなくなることがあるからだ。
援助職に就く人で、精神的なトラブルを抱え苦しむ人は少なくない、そのせいで家庭生活が破綻することも珍しくない。
実際優れた精神科医やカウンセラーは、素人から見ると、精神に異常をきたした怪しい人に見える。
イエスが生涯で癒した人の数はどれくらいか分からないが、数千人の群衆に囲まれるのが日常だったとすれば、気が遠くなるほどのカウンセリングをし続けたに違いない。
だとすれば、イエスが、ほとんど笑わない、視線も定まらない、暗い顔をした、挙動不審な男だったとしてもおかしくない。
もしそうではなく、花のように笑い、相手をしっかりと見つめ、太陽のように明るい顔をした、温かく穏やかな人だったのだとしたら、イエスは背負った物をいったいどこに置いてきたのだろうか。
いったいどうやって何千人もの人々と一緒に心の深い淵まで沈んでいながら、イエスはそこから毎回生還していたのか、本当に不思議なのだ。