マタイ8:5~13



【本当に強い人は優しい】


格闘家の友人がいる。

彼は、めちゃくちゃ強い。

10人の敵を素手で圧倒出来るくらい強い。

しかし普段の彼は「闘う」とか「暴れる」というイメージからは程遠い。

とにかく優しく、穏やかで、人を威嚇するということがない。

まさに「弱い犬ほどよく吠える」といわれる通り、ほんとに強い彼は「吠える」ことがないのだ。

ジャンルは違うが、このことは社会運動に挺身している友人たちにも共通していて、

ほんとに世のため人のために邁進している彼らもまた、途轍もなく人に優しく穏やかで、
「威嚇するために吠える」ということをしない。



【本物は本物を知る】


さらに、彼らは同じことをいう。

それは「本物は見たら分かる」ということだ。

本当に強い人は、本当に強い人が分かる。

本当に社会奉仕している人は、本当に社会奉仕している人が分かる。

逆にいえば、いまだに偽物に騙されてる私は、まだまだ本物になれていない、ということだろう。



【ローマ軍の下級将校】


さて、今日の箇所に出てくるローマ軍の下級将校はどうだろうか。

彼もイエスの説教を聞いたことがあったのだろう。

奇跡の現場に居合わせもしたのだろう。

そして彼はイエスに救いを求めた。

「お言葉だけいただければ、私の部下の病気は治ります」とイエスに懇願した。

私は彼もまた本物だった、と思う。

本物だったから、イエスを信頼できた。

本物だったから、イエスにすがることができたのだ。



【何の本物か】


ところで、この下級将校が何の本物だったのだろうか。

彼は戦闘の(つまり「人殺し」の)プロであり、兵士たちを適材適所で使うリーダーシップのプロだった。

彼は、自分の手で何人もの命を奪い、部下に数知れない人々の命を奪わせてきた本物だったからこそ、知っていたのだろう。

…人は簡単に死ぬ。愛する者も、憎む者も等しく人の命はもろく儚い。

…人は人を無造作に殺すことが出来る。

…巨大な権力の中に組み込まれてしまえば、本人の意思とは関係なく、人を殺さなければならないし、自分もまたいつ命を奪われるか分からない場を生き延びなければならない。


彼は「命と権力」を知る本物だった。

だから、イエスを「命を与える権威者」だと分かったのだろう。



【私たちは本物か】


マタイによる福音書はユダヤ人が作ったキリスト教会の中で生まれた書物だといわれている。

だとすれば、今日の箇所はイエス直系の教会に対する強烈な批判の文書だろう。

イエスの血縁であることを理由に、あるいは生前のイエスを知っていることを理由に威張り散らす指導者たち。

その指導者に取り入ろうとする信徒。

そんな見苦しい教会の現状に対して、この物語は生まれたのだと思う。


翻って、私たちはどうだ?!

自分の命の儚さに目をそむけ、身近な人の苦悩に知らぬふりをし、

その一方で地位や肩書を利用して弱いものを見下し、踏み付けにし、喜んでいる。

そんな私たちが本物といえるのか?!

そんな私たちがイエスを本当に知っているといえるのか?!




しかし、残念なことに、私たちは本物にはなかなかなれない。

むしろ、努力すればするほど本物までの遠さにうんざりする。

しかし、そんな「なろうとしてなれない」私たちのために、イエスは身を挺して下さった。

そしてそんな私たちに今も後も「手をさしのべ」「触れて」下さっている。

いつか本物になれることを信じて進みたい。