マタイ8:1~4
【清くなりたい病人】
第5章から第7章まで、長々と続く「山上の説教」と呼ばれる場面が終わり、
イエスは山を下り、大勢の人々がその後を追った。
その時イエスのそばに一人のらい病人が近づき、「清くして下さい」と頼んだ。
病人なのだから、必要なのは「清く」されることではなく、
「病気を治して」もらうことだと思うのだが、
彼が望んだのは「病気が治る」ことではなく「清く」されることだった。
これには理由がある。
当時のイスラエルでは、「清いもの」と「清くないもの」が厳密に分けられていた。
旧約聖書レビ記には、事細かにこれらについての規定が書かれている。
「清いもの」はイスラエルのコミュニティに居ることを許されたが「清くないもの」は排除された。
街の外に隔離され、家族とも断絶させられ、あらゆるつながりを断たれ、野垂れ死にすることを余儀なくされていた。
ここに登場するらい病人もまた「清くない」とされ、つながりから排除された一人だった。
彼が望んでいたのは、病気が治ることではなかった。
病気は治らなくてもいい、ただ家族の元に帰りたかったのだ。
どうせ苦しんで死ぬのなら、家族に見守れながら死にたいと思っていたのだ。
【病気が治ったのではない】
イエスは彼の願いを叶えた。
手をさしのべ、彼に触れ、「そうしてあげよう、清くなれ」といった。
すると、らい病がたちどころに「清められた」のだ。
これをらい病という病気が治った、と解釈する人もいるが、私はそうは思わない。
イエスは超人的な力で病気を治すという奇跡を起こしたのではなく、
何らかの方法で、このらい病人が家族と一緒に過ごす状況を作ったのだと思う。
歩けない老人も、生まれつき寝たきりの子どもも、らい病人も、売春婦・売春夫も、みんな天国に行ける。
きっと、イエスが発信し続けたこの夢のようなメッセージに共感した「清い」人たちが、自分たちが「つながり」から排除してきた「清くない」人たちを「つながり」の中に回復させようと行動したのだ。
たとえば、イエスの言葉に勇気を得た家族が、町はずれの洞窟に追いやられていた「清くない」家人を家に連れ戻したのではないか。
【手をさしのべ、触れる】
先月、かつて教会学校に通っていた青年が生活に困窮し、ホームレスとなり、シェルターに入ったものの職が見つからず、シェルターから出て路頭に迷い、かつて世話になった教会学校の先生(86歳の女性)を強盗目的で殺害するという、痛ましい事件がおきた。
彼は事件を起こす直前、その教会を訪ね、礼拝にも出席していたという。
「つながり」から排除された一人の青年が、僅かに残った「つながり」を頼ったが、教会は彼を受け入れることが出来なかった。
しかし、彼を受け入れる用意が出来ていないのはこの教会だけではない、私も仲間たちも彼を受け入れる用意など何も出来ていない。
この事件は、教会であれ、秘密基地であれ、森の拠点であれ、私と仲間たちが、彼のように瀬戸際に立たされ「つながり」を求めている人を受け入れようとしているのか?という問いなのだ。
大阪でいえば釜ヶ崎での無料の配食や夜回りは欠かせない。
これらを継続しておられる方々には本当に頭が下がる。
しかし炊き出しの列に並べない人はどうなる。
夜回りというギリギリの「つながり」からも排除され、犯罪を繰り返さなければ生きていけない状況になっている人はどうなる?
私が仕える久宝教会でも月に一度オニギリ支援と称してお結びを200個作り、釜ヶ崎に運ぶ活動をしているが、私たちがやっていることが、ホームレス(「つながり」からの排除)の根本的な解決に結びついているのか、真剣に問い直す時期が来ていると思っている。
私たちがやっていることが、的外れにならないために私たちはいつもイエスが示してくれた行動に立ち返りたい。
すなわち「手をさしのべ、触れる」ということだ。
私たちはイエスがやったように、目の前の困窮しているその人に「手をさしのべ、触れる」ということをしているだろうか?
その人を「つながり」の中に回復するというレベルまで、私たちは「手をさしのべ、触れ」ているだろうか?
マルコによる福音書の編者マルコは、イエスを「まっすぐ見る」人だと書いている。
「人」して認識されず、触れるどころか見ることも憚られた人々を、イエスは「まっすぐ見た」のだ。
これに対してマタイは「手をさしのべ、触れる」人と表現する。
手をさしのべるためには、その人を見なければならない。
まっすぐ見つめ、まっすぐ手をさしのべられた時、ひとはその手に触れようと手をのばす。
そうして私たちは真っ直ぐ見つめ合い、互いの手を取り合うのだ。
その人に「一緒に帰ろ!お家に帰ろ!」と声をかけ、
手をつないで家路につけるような、
そんな場所を作りたい。
【清くなりたい病人】
第5章から第7章まで、長々と続く「山上の説教」と呼ばれる場面が終わり、
イエスは山を下り、大勢の人々がその後を追った。
その時イエスのそばに一人のらい病人が近づき、「清くして下さい」と頼んだ。
病人なのだから、必要なのは「清く」されることではなく、
「病気を治して」もらうことだと思うのだが、
彼が望んだのは「病気が治る」ことではなく「清く」されることだった。
これには理由がある。
当時のイスラエルでは、「清いもの」と「清くないもの」が厳密に分けられていた。
旧約聖書レビ記には、事細かにこれらについての規定が書かれている。
「清いもの」はイスラエルのコミュニティに居ることを許されたが「清くないもの」は排除された。
街の外に隔離され、家族とも断絶させられ、あらゆるつながりを断たれ、野垂れ死にすることを余儀なくされていた。
ここに登場するらい病人もまた「清くない」とされ、つながりから排除された一人だった。
彼が望んでいたのは、病気が治ることではなかった。
病気は治らなくてもいい、ただ家族の元に帰りたかったのだ。
どうせ苦しんで死ぬのなら、家族に見守れながら死にたいと思っていたのだ。
【病気が治ったのではない】
イエスは彼の願いを叶えた。
手をさしのべ、彼に触れ、「そうしてあげよう、清くなれ」といった。
すると、らい病がたちどころに「清められた」のだ。
これをらい病という病気が治った、と解釈する人もいるが、私はそうは思わない。
イエスは超人的な力で病気を治すという奇跡を起こしたのではなく、
何らかの方法で、このらい病人が家族と一緒に過ごす状況を作ったのだと思う。
歩けない老人も、生まれつき寝たきりの子どもも、らい病人も、売春婦・売春夫も、みんな天国に行ける。
きっと、イエスが発信し続けたこの夢のようなメッセージに共感した「清い」人たちが、自分たちが「つながり」から排除してきた「清くない」人たちを「つながり」の中に回復させようと行動したのだ。
たとえば、イエスの言葉に勇気を得た家族が、町はずれの洞窟に追いやられていた「清くない」家人を家に連れ戻したのではないか。
【手をさしのべ、触れる】
先月、かつて教会学校に通っていた青年が生活に困窮し、ホームレスとなり、シェルターに入ったものの職が見つからず、シェルターから出て路頭に迷い、かつて世話になった教会学校の先生(86歳の女性)を強盗目的で殺害するという、痛ましい事件がおきた。
彼は事件を起こす直前、その教会を訪ね、礼拝にも出席していたという。
「つながり」から排除された一人の青年が、僅かに残った「つながり」を頼ったが、教会は彼を受け入れることが出来なかった。
しかし、彼を受け入れる用意が出来ていないのはこの教会だけではない、私も仲間たちも彼を受け入れる用意など何も出来ていない。
この事件は、教会であれ、秘密基地であれ、森の拠点であれ、私と仲間たちが、彼のように瀬戸際に立たされ「つながり」を求めている人を受け入れようとしているのか?という問いなのだ。
大阪でいえば釜ヶ崎での無料の配食や夜回りは欠かせない。
これらを継続しておられる方々には本当に頭が下がる。
しかし炊き出しの列に並べない人はどうなる。
夜回りというギリギリの「つながり」からも排除され、犯罪を繰り返さなければ生きていけない状況になっている人はどうなる?
私が仕える久宝教会でも月に一度オニギリ支援と称してお結びを200個作り、釜ヶ崎に運ぶ活動をしているが、私たちがやっていることが、ホームレス(「つながり」からの排除)の根本的な解決に結びついているのか、真剣に問い直す時期が来ていると思っている。
私たちがやっていることが、的外れにならないために私たちはいつもイエスが示してくれた行動に立ち返りたい。
すなわち「手をさしのべ、触れる」ということだ。
私たちはイエスがやったように、目の前の困窮しているその人に「手をさしのべ、触れる」ということをしているだろうか?
その人を「つながり」の中に回復するというレベルまで、私たちは「手をさしのべ、触れ」ているだろうか?
マルコによる福音書の編者マルコは、イエスを「まっすぐ見る」人だと書いている。
「人」して認識されず、触れるどころか見ることも憚られた人々を、イエスは「まっすぐ見た」のだ。
これに対してマタイは「手をさしのべ、触れる」人と表現する。
手をさしのべるためには、その人を見なければならない。
まっすぐ見つめ、まっすぐ手をさしのべられた時、ひとはその手に触れようと手をのばす。
そうして私たちは真っ直ぐ見つめ合い、互いの手を取り合うのだ。
その人に「一緒に帰ろ!お家に帰ろ!」と声をかけ、
手をつないで家路につけるような、
そんな場所を作りたい。