マタイ7:24~29




【砂の上に家を建てる愚か者】



ここまでイエスは当時のユダヤの宗教的支配者たち・エリートたちを辛辣に批判してきた。

今日の箇所はその締めくくりなのだが、

イエスは彼らを「家を川岸の砂地の上に建てた愚か者」に喩える。



真の賢者は家を岩の上に建てる。

  25節 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
   
     岩を土台としていたからである。

しかし、イエスの言葉をただ聴くだけで、自分の生きる方向を「自分の腹」に定めたまま

天に、あるいは神に、あるいは永遠なるものに、あるいは目に見えないものに、

向きを変えられないのは、「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」。

  27節 雨が降り、川があふれ、嵐が吹いてその家に襲いかかると、

     倒れて、その倒れ方がひどかった。




【法隆寺五重塔は石の上に立っているだけ】



私はこの箇所を読む度に、

法隆寺最後の棟梁だった西岡常一氏の「木に学べ」という本の一節を想い出す。

法隆寺の五重塔は、現代工法のように基礎と土台が緊結されているのではなく、

柱が礎石の上に乗っかっているだけだ、という下りだ。

五本の柱は地中に埋め込まれた礎石(岩)の上に立っている。

地震で揺れ、大風で揺さぶられると、柱はヨチヨチと礎石の上を踊るのだという。

小さく揺れば小さく踊り、大きく揺れば大きく踊る。

場合によっては一度の揺れで何十㎝も元の位置からずれるらしい。

驚いたのはそのあとのこと。

一度の揺れで何十㎝もずれた柱たちは、そのあと何十年、何百年かけて

元の位置にまた戻ってくるのだ!

素人には信じ難い話なのだが、

礎石の表面の凹凸を柱の底部に刻み込んであり、

一度ずれた柱が元の位置に戻った痕跡は柱の底部の傷として残っているのだそうだ。

今から1500年前の飛鳥時代の工たちが、

手作業で礎石の凹凸を柱の底に写し取ったというのも凄い話だが、

五本の柱たちが、元あった、本来立っているべき場所に戻ってくる、というのは凄すぎる!!




【礎石の上で踊っていたい】


私たちはまるで河原でテントを張るように、

お手軽だからと砂地の上に家を建てる。

けれどもその家はとても脆弱だ。

他方、イエスがいうように岩の上に建てるなら、それはしなやかに建ち続ける。


私たちは法隆寺の五重塔のようでありたい。

生きていれば地震や嵐は付き物だ。

その度に私たちは動揺し、錯乱し、茫然自失する。

しかし、私たちの足の裏に礎石の凹凸が刻み込まれている限り、

私たちはまた元の位置に帰ることが出来る。


じっとして動かないのではない。

私たちは神という礎石の上でダンスしているのだ。

どんなに奔放に踊ろうとも、踊らされようとも、私たちはまた神の御元に帰る。

私たちはイエスのこの約束を信じて、思う存分礎石の上で舞い続けたいと思うのだ。