マタイ7:21~23
山上の説教は、「主の祈り」を境にして、雰囲気がガラリと変わる。
空腹と孤独の中で死んでいくしかないような群衆に向かって語られていたイエスの温かく、慈しみに満ちた言葉が、その相手と内容を変える。
イエスの言葉は、2000年前のユダヤで高い地位に付き、民衆を睥睨していた宗教的エリートたちに向けられる。
そしてその語気は荒く、内容は険しい。
イエスに言わせれば彼らは
「自分の目に柱が入っているのに他人の目の大鋸屑をとやかくいう愚か者」(7:1~6)
「子どもがお腹を空かせているのにパンではなく蛇を与える親」(7:7~12)
「滅びに至る門を選んで進んでいく者」(7:13~14)
「羊の皮をかぶったオオカミ」(7:15)
「神の期待に応えられず切られて燃やされてしまう茨やアザミ」(7:16~20)
(ゴリ註:個人的には茨もアザミも大好きな植物ですが…)
なのだ。
これらのイエスの言葉は、一か所で延々と語られた訳ではない。
恐らく色んな場所で、色んな場面で語られた言葉だ。
大勢の時もあれば、少人数の時もあっただろう。
町の外の荒野で、何千人もの群衆に囲まれて語ったこともあっただろうし、
たった一人のために語ったこともあっただろう。
しかし、どんな場面でも共通していたのは、
天国に一番近いのは、威張り散らしているあの宗教的エリートたちではなく
彼らが見下し、差別している、今にも死にそうなお前たちだ、という響きだ。
それは差別され続け、空腹と孤独の中で死んでいくしかないような者にとっては、天地がひっくり返るような驚くべき言葉だったに違いない。
そして、今日の箇所でイエスは、最後の審判の時に、自分は彼らを全然知らないというだろう、と宣言する。
21節 わたしに向かって、「主よ、主よ」という者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
22節 かの日には、大勢の者がわたしに「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、
御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」
というであろう。
23節 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。
「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」
イエスのこの言葉は、イエスを警戒しイエスを監視していた宗教的エリートたちの耳にすぐにとどいただろう。
あるいは、群衆に交じってイエスの後を追っていた彼らは、直接この言葉を聞いたかもしれない。
自分たちこそ天国に近い、あの下賤な連中と比べれば一目瞭然だろう、あいつらは地獄へ、私たちは天国へ行くのだ。
そう信じていた彼らにとって、これほど衝撃的な言葉はないだろう。
自分たちは善行を積み上げてきたはずだ
預言をしてきたはずだ
悪霊を追い出してきたはずだ
奇跡も行ってきたはずだ
なのに、最後の裁きの時に、裁判長から「全然知らない」といわれるのだから。
イエスの今日の言葉は、エリートと呼ばれる指導者がどこを向いていなければならないかを示している。
神の名を利用して私腹を肥やしている限り、
自分と身内の経済的な繁栄や名声や地位を求めている限り、
エリートたちは天国から遥かに遠いのだ。
指導者たちとは誰のことか。
それは国のリーダーであり、地方自治体のリーダーであり、法人の代表であり、学校長や園長であり、集団の管理職であり、家族であれば父であり母を指す。
彼らが何処を見ているのか、
何を求めて、
みんなをどこに導こうとしているのかを、
イエスはじっと見つめている。
山上の説教は、「主の祈り」を境にして、雰囲気がガラリと変わる。
空腹と孤独の中で死んでいくしかないような群衆に向かって語られていたイエスの温かく、慈しみに満ちた言葉が、その相手と内容を変える。
イエスの言葉は、2000年前のユダヤで高い地位に付き、民衆を睥睨していた宗教的エリートたちに向けられる。
そしてその語気は荒く、内容は険しい。
イエスに言わせれば彼らは
「自分の目に柱が入っているのに他人の目の大鋸屑をとやかくいう愚か者」(7:1~6)
「子どもがお腹を空かせているのにパンではなく蛇を与える親」(7:7~12)
「滅びに至る門を選んで進んでいく者」(7:13~14)
「羊の皮をかぶったオオカミ」(7:15)
「神の期待に応えられず切られて燃やされてしまう茨やアザミ」(7:16~20)
(ゴリ註:個人的には茨もアザミも大好きな植物ですが…)
なのだ。
これらのイエスの言葉は、一か所で延々と語られた訳ではない。
恐らく色んな場所で、色んな場面で語られた言葉だ。
大勢の時もあれば、少人数の時もあっただろう。
町の外の荒野で、何千人もの群衆に囲まれて語ったこともあっただろうし、
たった一人のために語ったこともあっただろう。
しかし、どんな場面でも共通していたのは、
天国に一番近いのは、威張り散らしているあの宗教的エリートたちではなく
彼らが見下し、差別している、今にも死にそうなお前たちだ、という響きだ。
それは差別され続け、空腹と孤独の中で死んでいくしかないような者にとっては、天地がひっくり返るような驚くべき言葉だったに違いない。
そして、今日の箇所でイエスは、最後の審判の時に、自分は彼らを全然知らないというだろう、と宣言する。
21節 わたしに向かって、「主よ、主よ」という者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
22節 かの日には、大勢の者がわたしに「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、
御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」
というであろう。
23節 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。
「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」
イエスのこの言葉は、イエスを警戒しイエスを監視していた宗教的エリートたちの耳にすぐにとどいただろう。
あるいは、群衆に交じってイエスの後を追っていた彼らは、直接この言葉を聞いたかもしれない。
自分たちこそ天国に近い、あの下賤な連中と比べれば一目瞭然だろう、あいつらは地獄へ、私たちは天国へ行くのだ。
そう信じていた彼らにとって、これほど衝撃的な言葉はないだろう。
自分たちは善行を積み上げてきたはずだ
預言をしてきたはずだ
悪霊を追い出してきたはずだ
奇跡も行ってきたはずだ
なのに、最後の裁きの時に、裁判長から「全然知らない」といわれるのだから。
イエスの今日の言葉は、エリートと呼ばれる指導者がどこを向いていなければならないかを示している。
神の名を利用して私腹を肥やしている限り、
自分と身内の経済的な繁栄や名声や地位を求めている限り、
エリートたちは天国から遥かに遠いのだ。
指導者たちとは誰のことか。
それは国のリーダーであり、地方自治体のリーダーであり、法人の代表であり、学校長や園長であり、集団の管理職であり、家族であれば父であり母を指す。
彼らが何処を見ているのか、
何を求めて、
みんなをどこに導こうとしているのかを、
イエスはじっと見つめている。