マタイ7:13~14
【苦労は買ってでも…】
「苦労は買ってでもしろ」と母に言われて育った。
どうして?と訊くと
「狭い門から入れ、てイエスさまもいうてはるでしょ?」と言われた。
そのせいなのかどうなのか分からないが、軽い荷物と重い荷物があったら迷わず重い方を持ってしまう。
近道と遠回りの道があれば、近い方を選んではいけないような気がして遠い方を選んでしまう。
すぐに手に入るものより、簡単には手に入らないものの方が魅力的に見える。
今ここにあるものではなく、それがなくてみんなが困っているものを求めてしまう。
自動車を頻繁に使うようになったのと、
年齢とともに体力が落ちてきているせいで、
また若いころは有りえなかった介護というものを抱えるようになって
時間も限られてきているからなのだが、
近頃は、楽が出来る道や方法を選ぼうとしている自分がいる。
でも楽な方を選んでしまった後で、私はいつも後ろめたい気持ちになる。
狭い門ではなく、広い門を選んでしまったのではないか、と思うのだ。
【行列には並ばない】
年齢や体力や状況が変わっても、今でもこれからも変わらないことがあるとすれば
大多数が進む道には興味が湧かない、ということだ。
小さいことでいえば、行列が出来る飲食店の行列には並んだことがない。
遊園地で行列が出来ているアトラクションにも並ばない。
(そもそも人が大勢集まる場所は息苦しくて行きたくない)
みんなが右といえば反射的に左を選びたくなる。
単なるへそ曲がりなのかも知れないけれど、
私には人がいない場所にこそいつも真実があるように思えるのだ。
【便利=不自由】
とはいえ携帯やpadやPCを私も人並みに使っている。
しかし便利さに慣れてはいけないと思い、1年ほど前から手帳に使う筆記具をボールペンから筆ペンに変えた。
筆ペンを使っていると素早く筆記できないからイライラすることもあるのだが、筆先が紙の上を自在に走るのが面白くて、ちょっとしたメモでも束の間心が躍る。
そういえば私の山の師匠がよくいっていた。
便利なものは不自由だ、と。
旅とはつきつめていうと、孤独に死ぬことへの願望だと思う。
しかし漂泊を求め、行き倒れを望んでいるはずの旅が、携帯電話のせいでそれを許してもらえない。
自由でありたいなら、便利さを捨てなければならないのだろう。
【別れ道】
私たちは道を歩いていて、必ず行き止る。
目の前で道は二つに分かれている。
一つは歩きやすそうな真っ直ぐの、広々とした道だ。
もう一つは下草に覆われ凸凹したしかも歪んだ、とても道とはいえないような細い道だ。
イエスはいう
「滅びの門は広く、そこに至る道も広々としていて、そこに進む者は多い
しかしいのちに至る門は狭く、そこに至る道も狭く、それを見出すものはほとんどいない」と。
私たちは、大勢が進む広い道ではなく、それがほんとに道なのか判然としないような細々とした頼りない道を選ぶ勇気を持ちたい。
たとえばメールではなく手紙を、
たとえばカップラーメンではなくご飯を炊いてお結びを、
たとえば車ではなく徒歩を、
たとえば携帯電話ではなく訊ねていって顔と顔を合わせて直接話すことを、
選べるようになりたい。
【休んでいい】
ただ、勇気を振り絞って狭い道を選びその道に進むにせよ、
もし疲れ果てているのなら、
進む前にその場に座り込んで暫し休むことは許されている。
そして、あなたが眠っている時も、ずっとイエスは寄り添ってくれている。
一緒に旅を続けてきたイエスが、ずっとあなたの傍にいてくれている。
【苦労は買ってでも…】
「苦労は買ってでもしろ」と母に言われて育った。
どうして?と訊くと
「狭い門から入れ、てイエスさまもいうてはるでしょ?」と言われた。
そのせいなのかどうなのか分からないが、軽い荷物と重い荷物があったら迷わず重い方を持ってしまう。
近道と遠回りの道があれば、近い方を選んではいけないような気がして遠い方を選んでしまう。
すぐに手に入るものより、簡単には手に入らないものの方が魅力的に見える。
今ここにあるものではなく、それがなくてみんなが困っているものを求めてしまう。
自動車を頻繁に使うようになったのと、
年齢とともに体力が落ちてきているせいで、
また若いころは有りえなかった介護というものを抱えるようになって
時間も限られてきているからなのだが、
近頃は、楽が出来る道や方法を選ぼうとしている自分がいる。
でも楽な方を選んでしまった後で、私はいつも後ろめたい気持ちになる。
狭い門ではなく、広い門を選んでしまったのではないか、と思うのだ。
【行列には並ばない】
年齢や体力や状況が変わっても、今でもこれからも変わらないことがあるとすれば
大多数が進む道には興味が湧かない、ということだ。
小さいことでいえば、行列が出来る飲食店の行列には並んだことがない。
遊園地で行列が出来ているアトラクションにも並ばない。
(そもそも人が大勢集まる場所は息苦しくて行きたくない)
みんなが右といえば反射的に左を選びたくなる。
単なるへそ曲がりなのかも知れないけれど、
私には人がいない場所にこそいつも真実があるように思えるのだ。
【便利=不自由】
とはいえ携帯やpadやPCを私も人並みに使っている。
しかし便利さに慣れてはいけないと思い、1年ほど前から手帳に使う筆記具をボールペンから筆ペンに変えた。
筆ペンを使っていると素早く筆記できないからイライラすることもあるのだが、筆先が紙の上を自在に走るのが面白くて、ちょっとしたメモでも束の間心が躍る。
そういえば私の山の師匠がよくいっていた。
便利なものは不自由だ、と。
旅とはつきつめていうと、孤独に死ぬことへの願望だと思う。
しかし漂泊を求め、行き倒れを望んでいるはずの旅が、携帯電話のせいでそれを許してもらえない。
自由でありたいなら、便利さを捨てなければならないのだろう。
【別れ道】
私たちは道を歩いていて、必ず行き止る。
目の前で道は二つに分かれている。
一つは歩きやすそうな真っ直ぐの、広々とした道だ。
もう一つは下草に覆われ凸凹したしかも歪んだ、とても道とはいえないような細い道だ。
イエスはいう
「滅びの門は広く、そこに至る道も広々としていて、そこに進む者は多い
しかしいのちに至る門は狭く、そこに至る道も狭く、それを見出すものはほとんどいない」と。
私たちは、大勢が進む広い道ではなく、それがほんとに道なのか判然としないような細々とした頼りない道を選ぶ勇気を持ちたい。
たとえばメールではなく手紙を、
たとえばカップラーメンではなくご飯を炊いてお結びを、
たとえば車ではなく徒歩を、
たとえば携帯電話ではなく訊ねていって顔と顔を合わせて直接話すことを、
選べるようになりたい。
【休んでいい】
ただ、勇気を振り絞って狭い道を選びその道に進むにせよ、
もし疲れ果てているのなら、
進む前にその場に座り込んで暫し休むことは許されている。
そして、あなたが眠っている時も、ずっとイエスは寄り添ってくれている。
一緒に旅を続けてきたイエスが、ずっとあなたの傍にいてくれている。